旅三昧&ときどき読書+映画

私は小泉牧夫。英語表現研究家という肩書で『世にもおもしろい英語』『アダムのリンゴ 歴史から生まれた世にもおもしろい英語』(IBCパブリッシング刊)という本を書いています。2018年4月に 出版社を退職し、41年にわたる編集者生活を終えました。いま世界中を旅しながら、本や雑誌記事の執筆とともに、旅先ではこのブログを書いています。お金はありませんが、時間だけはたっぷりある贅沢な旅と執筆と読書と映画の日々を綴っていきたいと思います。

旅三昧&ときどき読書+映画

私は小泉牧夫。英語表現研究家という肩書で『世にもおもしろい英語』『アダムのリンゴ 歴史から生まれた世にもおもしろい英語」(IBCパブリッシング刊)という本を書いています。2018年4月に出版社を退職し、41年にわたる編集者生活を終えます。それからは世界中を旅しながら、本や雑誌記事の執筆をする予定。お金はありませんが、時間だけはたっぷりある贅沢な旅と執筆と読書と映画の日々を綴っていきたいと思います。

夏はノルマンディをバイクで走る

午前中にジムに行く。何日か前に軽い熱中症のような症状になったので、あまり無理をせず、プールで水中歩行を20分、その後100メートルほどクロールで軽く泳ぐ。

LAの船会社から「大西洋横断クルーズで壊れたスーツケースの車輪の修復代は、送料と残高証明書の発行手数料(領収証は日本語)も含めて全額支払う」とメールが来た。補償金額6,500円のために、何度も英文メールを書いたり、ものすごい時間とエネルギーを使った。でも英語だけでなく、アメリカ人相手の交渉の仕方も学んだし、いつか自分の役に立つことだろう。

佐藤優著『十五の夏』を60ページほど。ディテイルがおもしろい。私のブログとは比較にならないほど素晴らしい本だが、いろいろな出来事を一言で済まそうとはせず、細かな描写や心象風景が書かれていることは似ている。旅先で日本人の会社社長や大学教授に会うと、異口同音に「きっとこの旅が、今後のあなたの人生に影響を及ぼすことでしょう」と言われる。確かに、私も海外旅行によって人生に対する考え方が大きく変わった。

8月中旬のイギリス・フランスの旅だが、まだフランス側の予約ができていない。このブログには何度も出てくるが、コタンタン半島のバルフルールという人口600人の港町にどうやっていくかが一番の問題。シェルブールからは1520キロくらいだと思うのだが、どうもバスは出ていないようだ。自転車で行くことも考えたのだが、シェルブールにレンタル自転車はあるのだろうか? 

そんなことをあれこれ考えていた時に、「そうだオートバイで行ってみよう」と思い立った。高校生の時にバイクの免許を取った。まだ中型と大型免許とに分かれていなかったので、私は超大型のハーレーダビットソンだって乗ることができる。今の私に運転技術が伴うかはわからないが・・・。

以前、会社の後輩に私の免許を見せて「大型バイクにも乗れるんだぜ」と自慢したら、「いいですねー」と本当にうらやましそうに言った。仕事では尊敬されたことはなかったが、大型バイクにも乗れる免許を持っていることで、初めて先輩として認められたような気がした。

話をレンタル・オートバイのことに戻すと、そんな大きなバイクでなくてもスクーターでも、ホンダカブだっていい。1520キロくらいなら30分も走れば着くだろう。いっそのことバルフルールのホテルに泊まることはできないか考えたのだが、バイクでは大きなスーツケースは運べないので諦めることにした。もちろん国際免許も持っているので自動車にも乗れるのだが、レンタカーは使いたくない。夏のノルマンディで風を感じながら走りたいと思う。

さて、そろそろフランスのホテルの予約をしなければ・・・。もちろんレンタル・バイクの予約も。

母が「行って来い」と送り出してくれた海外旅行

ジムに行こうと思ったのだが、ちょっと頭の奥が痛かったので、大事をとって家で過ごした。佐藤優著『十五の夏』という本を読み始める。43年前の1975年、高校1年だった著者が、両親から入学のお祝い代わりにお金を出してもらって行った「東欧・ソ連」の旅行記だ。この時代で、しかも初めての海外で共産圏に行ったというのだから凄い。この旅が、その後の彼の人生を決めたのだだろう。上巻の帯には「『何でも見てやろう』『深夜特急』につづく旅文学の新たな金字塔」というキャッチコピーがある。

この当時、海外旅行に行くというのはおおごとだった。私が出版社に入社したのが1977年。その年の秋に上司がフランクフルトブックフェアに行くというので、羽田空港まで見送りに行ったことがある。大きな部屋で「壮行会」が開かれ、見送る方も送られる方も代表が何人か挨拶をしたことを覚えている。それこそ「万歳三唱」でもしそうな雰囲気だった。

そういえば、私も大学2年の時に初めて海外旅行に行った。1974年だったと思う。佐藤もそうだが、私もこの時「海外に行くのはこれが最初で最後だ」と信じ込んでいたので、何度も海外に行ける数次旅券ではなく1回限りの一次旅券を取得した。この時、旅行会社の人から「一度行くと、また行きたくなるんですよね」と言われたことをはっきりと覚えている。一次旅券は1989年に廃止され、いまでは5年と10年のどちらかのパスポートを選べるようになっていると言う。

この私の海外旅行は、母が私に「行ってこい」と言ってくれたことで実現したものだ。「これからは、会社に入っても海外に出張に行ったりすることが多くなる。だから、その時に恥をかかないように一度くらい学生のうちに行っておいた方がいい」と。父は公務員だったが、ボーナスと同じくらいの金額のお金を職場で「教育目的」という名目で借りてくれて、私はイギリスとフランスに1か月行くことができた。

母はとても保守的な人だったし、ケチで小遣いもほとんどくれなかった。学費や本や参考書など勉強に使うものについては何も言わずにお金を出してくれたが、それ以外はびた一文くれなかった。「もう戦後ではない」と言われた時代だったが、私はいつもツギ(今の若い人にわかってもらえるだろうか?)のある服を着ていた。小学校の時、家庭科の時間に先生が「今ではもうツギのある服を着ている人はいませんが、ツギを当てる方法は習っておいた方がいい」と言った時、クラスメイトの1人が「まだいるよ」と言って私を指さしたことがあった。

その徹底したケチというか倹約家の母に勧められて行った海外旅行が、その後の私の人生を変えた。出版社に入社し海外担当になり、毎年NYやフランクフルトで開催されるブックフェアに行き、外国の出版社の人たちと英語で商談をした。毎年、暮と正月の休暇には家族でヨーロッパやアメリカをドライブした。『世にもおもしろい英語』と『アダムのリンゴ 歴史から生まれた世にもおもしろい英語』という英語表現に関する本も書いている。娘はアメリカ人と結婚しフロリダに住んでいる。2人のハーフの孫たちも完全なバイリンガルだ。そして私はこれからの人生を海外旅行と本の執筆で生きて行こうと思っている。そのすべてが、母の一言から始まっている。

『十五の夏』は佐藤優の旅の回顧録だが、同時に私の旅や人生も回顧しながら読んでいる。いま上巻の半分まで。これからの展開が楽しみだ。

もうひとつ、この本を読みながら思い出したことがある。8月中旬に予定しているイギリス・フランス旅行のホテルを予約していないのだ。8月後半のエジンバラからスコットランド湖水地方を廻るドライブについてはレンタカーもホテルも予約したのだが、前半の旅はまだ全く予約していない。

イギリスの南部を廻ってからフェリーでフランス・ノルマンディに渡り、またイギリスに戻るというコース。まずネットで船の予約をする。Pooleという小さな町からシェルブールへの便がある。1日に1往復だ。その1週間後にまた同じ船で戻ってくる予定で考えていたのだが、フランスに渡る日がどうしても画面に表示されない。日曜日でもう予約が一杯なのかもしれない。でも、私は車をフェリーに乗せるわけではない。このネット上の表記でいうところの「on foot passenger」なのだ。人間をひとり乗せるくらいどうにかならないのだろうか?

いろいろ考えたあげく、コースを変更する。ポーツマスから船に乗ってフランスのカーンに行き、そこからシェルブールに行って、また船でイギリスのプールという町に戻るというコースにするとうまくいくことがわかった。ノルマンディの行程が逆になるが、そのことで1日余裕が出て来たので、イギリスのBritonにも寄って1泊することにする。

フェリーの予約を済ませてから、とにかくイギリス側のホテルを予約。まず値段を見て当たりをつけてから地図を見る。私はバックパックを背負ってスーツケースで転がして、電車で移動する予定なので、駅から近いホテルにする必要がある。次に口コミをチェックする。ほとんど英語で、日本語はたまにあるだけ。口コミをチェックしている時ほど英語が読めてよかったと思うことはない。

そんな風にじっくり吟味すると、ホテルをひとつ予約するのに30分から1時間かかる。同じ部屋でも「キャンセル不可」と「無料キャンセル可」という表示がある。「可」の方が数百円高いが、念のためそっちを予約する。

結局、往復のフェリー(行きと帰りでコースは違うが)とイギリス側のホテルを予約するだけで3時間かかってしまった。でも、自分でネットで簡単に予約できる時代になったのはありがたい。

『十五の夏』を読むと、著者は何度も何度も旅行代理店や大使館に足を運ばなければならなかった。その時代と比べると天国と地獄ほどの違いがある。

 

 

 

日本語ができなくて日本で働けるのかい?

朝9時に松戸のハローワークへ。書類を提出すると、会議室にで待つように言われる。これから再就職のための研修をするのだろうか、求人募集の検索機の使い方とかを教えてくれるのだろうか?などと思っていたら、予想は大きく外れた。担当の人が入って来て、先日提出した書類を返してくれた。それには給付額と振り込み日が印刷されている。「失業給付が1週間以内に払い込まれるので、もし入金がなかったらご連絡をお願いします」と言う。「以上です。お疲れさまでした」と挨拶して終わり。

あれ? いろいろな人の話を聞くと、1か月に何回かハローワークに行って求人をチェックしなければいけないはずだが・・・。再度受付で聞くと「給付の支払いも終わりましたので、もうこれで来なくても大丈夫です」と言う。前回の初めての面接では「月に何度か来て求人を見てください」と言われたのだが、60歳で辞めた人と65歳まで働いた人で違ってくるのだろうか? 何日かしたら、もう一度電話して確認してみよう。

孫にベネッセの学習セット「しまじろう」を送る。これが意外と大変。梱包し、宛名を書いて、さらに添付書類に中身と金額を記入しサイン。一緒に、この前の大西洋横断の旅で親しくなったダラスにも私の本を送る。これにも書類に中身と金額を記入。

彼は「今度、日本を訪ねて、7か月くらい滞在したいので、どこか就職先を紹介してくれないか?」とメールを送ってきた。「東京を案内する」とは言ったが、就職を世話するとは言ってない。だいたい日本語が全く喋れないのに、日本でどうやって働くんだ。

以前、娘が住んでいるフロリダの町で、日本語のうまいアメリカ人と知り合いになった。テイクアウトの寿司屋でバイトをしている大学生だった。私が「Wakame miso soup, please!」と言ったら「日本人ですか?」と日本語で聞いてきたのだった。「ワカメの発音が日本語ぽかったのでわかりました」と言う。鹿児島でホームステイしたことがあると言い、「次は日本の文科省のAETプログラムに応募して日本中学や高校で英語を教えたい。だからいま一生懸命に日本語のトレーニングしています」と言った。ダラス君、それが普通だろう。

私は彼に「以前、ダニエル・カールというタレントがいたが、彼は山形のdialectを使って人気者になった」という話をした。「山形弁でYesとかOK!のことを『うんだ、うんだ』と言うんだけれど、アメリカ人の彼がそれを言うとすごく受けたんだよ」と。

そのアメリカ人学生はこの「言葉」がいたく気に入ったようで、私も暇だったし、彼も非番になったこともあって、30分ほど「うんだ、うんだ」という山形弁のレッスンをした。最後に私が「でも、日本の他の地域では通じないよ」と言うと、彼は「うんだ、うんだ」と応えた。完全にマスターしてしまったようだ。

NYの観光ヘリのパイロットにも日本語がすごくうまい人がいた。ハドソン川沿いのリバティヘリコプターの待合室で乗る順番を待っていると、「日本の方ですか?」と完璧な日本語で聞く人がいた。それがリーという名の白人のパイロットだった。「日本に行ってお笑い芸人になりたくて、明石家さんまの家の前で1週間粘ったんですがダメでした」と言う。「日本で『変な外人』としてデビューしたかったんですが」と(『変な外人』という言葉は最近聞かないな)。私は言った。「でも、これだけ自然な日本語が喋れれば大したもんだ。お笑いタレントにはなれなくても」

 

 

 

 

映画「ガンダル」が放つインド女性への強いメッセージ

昨晩は11時に寝て、今朝7時に起きNews 23の録画を見る。それから朝食を済ませ、キネ旬ステーションシアターに。「ガンダル きっと、つよくなる」というインド映画を観る。実際にあった女子アマチュアレスリングの金メダリストの話だ。この映画がなぜインドで大ヒットしたのかはよくわかる。この映画は、十代半ばで親の決めた人と結婚して子供を産むという道しかなかったインドの女性たちに「自分の生きる道は自分で決めるのだ」という強いメッセージを発しているからだ。

この映画でも、金メダルを取った選手はナショナルチームのコーチと握手もしなかった。どこかで見たような光景だ。

インドは世界で最も映画の製作本数が多く、動員観客数も世界一の「映画大国」。これからもインドで大ヒットした映画が日本に続々と入ってくることだろう。

映画が終わったのが11時30分。それからジムに行く。若い時のように無理はできないが、ゆっくりストレッチをして、15分ほどウォーキング。次はウエイトレーニング、腕だけでなく脚や腰、背中にも「圧」をかける。

2時にお昼、焼肉定食を食べる。それから床屋へ。途中たった5分ほどだったが、ものすごい土砂降りの雨になる。大きめの折り畳みの傘をかぶっていたのだが、ズボンがびっしょりになってしまった。

床屋では裾を刈り上げてもらう。もう会社にも行っていないし、少しでも床屋に行くお金と時間を節約しなければならない。でもシニア料金で2500円。これまでは4000円以上したのに。

家に帰る途中コンビニであんぱんを買う。お腹がすいてどうしようもない。まさか何かの病気じゃないだろうな? 夕飯も早めに食べているし、運動もしているし、体重も落ちているし、いたって健康だと思うのだが。

家で30分ほどBSのヒストリー・チャンネルの録画を見る。アメリカ軍の厳しい訓練のドキュメンタリー。字幕だったので、画面の下を紙で隠してヘッドフォンでひたすら英語を聴く。

そういえば、映画「ガンダル」を観ている時に次に書く本のテーマと方向性が頭に浮かんだ。おもしろい英語表現については切り売りしたいほどネタがたくさんあるのだが、それをどのようなコンセプトで、どのように一本の線でつないで一冊の本を書くかが一番の悩みどころ。それが一挙に解決した。靄の中で突然青空が見えたような、すっきりした気分。

夜、4月の大西洋横断の船旅で親しくなったボストン郊外に住むTheoからのメールに返信。「先週の金曜に私の著書2冊を送った。もうそろそろ着くころだ」と書く。でも日本語ばかりの本でがっかりしないだろうか? 「もし日本語部分で知りたいところがあれば翻訳するのでページを教えてほしい」と付け加える。

彼のメールには、テキサスのサン・アントニオに行っていて、奥さんサリーのおばさんと楽しい時間を過ごしたと書いてある。第二次大戦時に行った退役軍人で96歳、まだとてもしかっりしていて普通に会話ができると言う。第二次大戦当時、女性も兵士になれたのだろうか? 確かにauntと書いてあるが・・・。

そういえば、私の娘の家にも日本の祖父母の結婚式の時の写真と、アメリカ人の夫の祖父が第二次大戦の時に撮影した軍服の写真が並んで飾ってある。日本の祖父も大戦の時にジャワやカンボジアシンガポールを転戦した。日米両国の軍人だった人の写真が同じ棚に飾られているのは、なかなか凄いことじゃないかと娘は言っている。

 

夏にはノルマン・コンクエストを辿る旅へ

早朝にヤンキースの投手と田中とエンゼルスのバッター大谷の初対決があり、それを見ていたために寝るのが遅くなり、起きたのが朝10時。どうにか生活のリズムをつくろうという自分と、もう会社も退職したのだから好きなテレビを明け方まで見てもいいじゃないか、というもうひとりの自分が葛藤している。

遅くなってもいいのでジムに行こうと思ったが、昨日熱中症のような状態になったので、大事をとってやめることにする。シャワーを浴びて床屋に行こうと思い、電話で予約しようとしたが、「今日は休み」というメッセージ。そろそろ緑内障予防の眼圧を下げる目薬がなくなる。視野検査も年に一度はやらなければいけなので、渋谷の眼科に電話して金曜に予約しようとしたら、その日はもう予約で一杯とのこと。やるべきことがなかなか進まない。

813日からイギリスとフランスに行くのだが、その旅行の計画を練る。ロンドン・ヒースローからカンタベリー英国国教会の総本山のカンタベリー大聖堂がある)、ヘイスティング、セブンシスターズ、ボンマス、フェリーでフランス・シェルブール、そこから自転車かバスでバンフルールという小さな村、バイユー、カーンから、またシェルブール、ボンマスに戻る。

1066年に「ノルマン・コンクエスト(ノルマンの征服)」という歴史的な大事件があったが、その痕跡を辿るというマニアックなコース。フランスのノルマン公国の王様とその軍隊がバンフルールから船に乗りブリテン島に上陸、イングランドのハロルドという王の軍隊を打ち破ってイングランドを統治してしまう。それが今のイギリス王室の始まり。何とイギリス王室のルーツはフランスだったのである。それ以降しばらくは、フランス語が王侯貴族の言葉になり、英語は庶民の言葉になってしまう(帝政時代のロシアのように)。そのあたりのことは『アダムのリンゴ』に詳しく書いたのだが、今の英語にフランス語がかなり混在しているのは、こんな歴史があったからだ。

こんな話がある。エリザベス女王が「我が国はこれまで外国によって征服されたことはありません」と言うと、ある人が「でも、ノルマン・コンクエストがありましが・・・」と言った。女王は「あれは私どもがやったことです」と応えたという。

眠くて眠くて、お腹もすいて。気持ちが緩んでるのか?

帰国して1か月、いろいろなことが片付きつつあり、やっと落ち着きを取り戻す。

8月中旬からイギリス・フランスを旅して、後半にはスコットランドをドライブする予定。それまでしばらく日本にいるが、海外に関することを書いていきたい。同時に読書や映画についても感想を述べていきたい。

38日から422日までの旅も、最初はその日に起こったことの中で一番印象に残っていることに的を絞ってピンポイントで書きたかったのだが、起こること全てがおもしろく驚きの連続だったこともあり、朝から晩までの一連のことを書き綴ってしまった。

今日からしばらくは、その日に起こった一番大きな出来事だけを書いていきたい。次の本を書くための資料集めもしなければならない。でも、2つをうまく両立できるか?

アメリカに住む娘からLINE7月初旬から2週間、家族で日本に来たいと言う。便を羽田行きにしようか成田にしようか迷っていると。今は羽田から京急で品川まで来れば、上野東京ラインという線があって、上野で乗り換えなしに常磐線に入って座って来られるというと「えっ、ホント?」と驚いていた。

午後、冷房の効いた書斎で、英語のトレーニングをし、英語史の本を読んでいたら、凄く眠くなってしまった。やはり会社を定年退職し、気持ちが緩んでいるからだろうか? 妻は熱中症ではないかと言う。ポカリスェットを飲んでとにかく眠る。夜起きてブログを書く。

最近、異様にお腹がすく。体重は50日の海外旅行以降4㎏も減ったし、3日おきにジムにも行っている。いたって健康だ。旅行前はご飯は茶碗に三分の一、サラダなどの野菜や果物を中心に食べていたが、それではもたない身体になってしまったようだ。体質が改善か改悪されたのか?

船旅で壊れたスーツケース、損害賠償交渉の行方は?

大西洋横断クルーズで、スーツケースを船内の部屋に運んでもらう時に車輪が壊れてしまったことは何度も書いたが、その後どうなったかについて記す。

サムソンに電話すると、書類をメールの添付ファイルで送るので、必要事項を記入してスーツケースの中に入れて送ってほしいという。「明日、宅配便を取りに行かせる」と。私が「英文の見積もりが必要なんですが」と言うと、その旨のメモもスーツケースの中に入れておいてほしいと言う。

何日かしてサムソンからメールが来た。添付ファイルに見積もりがあったのだが、日本語だった。さっそく電話して「英語の見積もりを頼んだのですが」と言うと、「英語の見積もりはない」と言う。「サムソンのような世界的企業が英語の見積もりを持っていないはずはないでしょう」と言うと、「ちょっと確認してご連絡します」と応える。夕方になってメールの添付ファイルで英語の見積もりが届く。なんだ、やっぱりあったじゃないか!

船で一生懸命に書いた英語の書類(責任者の確認サイン入り)とこの英文の見積もりを添付ファイルにしてLAの船会社にメール。どのくらい時間がかかるかと思っていると、5日後に船会社から返事が来た。ベスト・ワン・クルーズの田渕さんから言わせると「考えられないような対応の早さ」。

メールには「この度の船旅で生じた損傷で、お時間を使わせしまったことをお詫び申し上げます」と書いてある。アメリカ人でも謝ることがあるんだ!と驚く。「損害額はお支払いします。それには2つのオプションがあります。オプション1は銀行振り込み。オプション2は次の船旅をされる場合、損害額を合わせて100ドルディスカウントする方法です。オプション1を選ばれる場合は、添付のドキュメントに必要事項を入力してご返送ください。また一緒に、あなたが確かにこの口座の持ち主であることを証明する書類を添付してください。例えば使用済みの小切手のコピー、あるいはあなたの口座であることを証明する銀行のステートメントです」。

もちろんオプション1を選んだが、これは弱った。だいたいは日本では、私のような一般人はほとんど小切手を使わない。すると私の口座を証明する銀行のステートメントということになる。もし彼らが日本語が読めれば通帳の表紙をコピーして送れば問題ないが、それはどだい期待する方が無理。銀行で確認してみると「残高証明書」が唯一英語で発行できる証明書だと言う。だが、発行手数料が750円かかると言う。「英語のレシートはもらえますか?」と尋ねると「英語のレシートはない」とのこと。アメリカなら何の問題にもならないことが、同じことを日本でやろうとすると大変なことになってしまう。

そんなこんなで、やっと船会社にメールを送ることができたのは一昨日のこと。残高証明書の残高は黒いマジックで消し、発行手数料のレシートの日本語部分を英語に訳して手書き。メール文には、日本では普通の人はめったに小切手を使わないこと、英語の残高証明書は発行手数料がかかったので、その手数料750円もこのダメージのために発行してもらわざるをえなかったものであるから、その分も加えて損害額を支払ってほしい旨を記す。

まだ返事は来ない。さて、日本語の「残高証明書」発行手数料を彼らは、どのように判断するのだろうか?

そんなことをしていた私を見て妻が言った。そんなことを全部英語でできるなら、旅行会社で働いたら?