旅三昧&ときどき読書+映画

私は小泉牧夫。英語表現研究家という肩書で『世にもおもしろい英語』『アダムのリンゴ 歴史から生まれた世にもおもしろい英語』(IBCパブリッシング刊)という本を書いています。2018年4月に 出版社を退職し、41年にわたる編集者生活を終えました。いま世界中を旅しながら、本や雑誌記事の執筆とともに、旅先ではこのブログを書いています。お金はありませんが、時間だけはたっぷりある贅沢な旅と執筆と読書と映画の日々を綴っていきたいと思います。

旅三昧&ときどき読書+映画

私は小泉牧夫。英語表現研究家という肩書で『世にもおもしろい英語』『アダムのリンゴ 歴史から生まれた世にもおもしろい英語」(IBCパブリッシング刊)という本を書いています。2018年4月に出版社を退職し、41年にわたる編集者生活を終えます。それからは世界中を旅しながら、本や雑誌記事の執筆をする予定。お金はありませんが、時間だけはたっぷりある贅沢な旅と執筆と読書と映画の日々を綴っていきたいと思います。

ギヨームはバルフルールから出港していなかった!

8月22日、フランスのシェルブールはフランス・ノルマンディのコタンタン半島の先端にある港町だ。この不思議な名前の半島は、モンサンミッシェルのすぐ横にあるというとても理解されやすい。私がこの街を訪れた理由は映画「シェルブールの雨傘」の舞台地となったからではない。毎日書いている「ノルマン・コンクエスト」において、重要な意味を持つ場所に近いからだ。

シェルブールから西に20キロほど東に行った半島の突端に「バルフルール」という人口600人の漁村がある。1066年ノルマンディ公国の王ギヨームとその軍隊が、この港からブリテン島を目指して船を繰り出したとされている。つまり「ノルマン・コンクエスト」はこの港から始まったのだ。

以前よく「ヨーロッパ空中散歩」という斉藤由貴がナレーションをやっているBSの番組を見ていた。その番組で、この村の風景が上空と地上から映し出された。その時、私は「将来、自分は絶対この村に行く」と思いこんでしまった。その番組のコメントでも「イングランドを征服したノルマンディの王様ギヨームは、この港から出港してイングランド征服をなし遂げました」と紹介されていたのだ。

昨日の夕方、シェルブールの駅から歩いて20分ほどのホテルに着いた私は、さっそくフロントで「明日バルフルールに行きたいんですが、バスがありますか?」と尋ねたのだった。彼女は「ウイ」と応え、「駅の横のバスターミナルから午前中と午後に1本ずつバスがあるはずです。バス会社はManeoと言いますから、詳しい時刻はウェブサイトで調べてください」と親切に教えてくれた。私は「日本でネットをいくら調べてもシュルブールからバルフルール行きのバスに関する情報はありませんでした。ですからレンタ・サイクルかレンタ・オートバイで行こうと思っていたんです」と言うと、その女性は驚いたような顔をしていた。

部屋に入ってパソコンを出し、ネットでManeoのホームページでチェック。なぜ日本ではネットに表示されなかったのかわかった。フランス語のサイトだからだ。「出発地シェルブール・目的地バルフルール」と入力すると1日に5本あることがわかった。だが、そのうち2本がバルフルールまでの55分の特急バスで、それ以外は1時間40分もかかる。よく見ると、特急バスは村までの直行便、遅い方はシェルブール駅から電車に乗り、どこかの駅で降りて、そこからバルフルール行きのバスに乗り変えるというコースだった。バス会社のホームページなのに、鉄道とバスを組み合わせて目的地へ行く方法も表示される。日本ではちょっと考えられない。

私は1230分のバスに乗った。料金は2ユーロ50セント。300円ほどだ。バスにはもうひとり、バックパックを背負ったいかにも旅人と言った風情の中年男性が乗っていた。さらに途中のバス停で、紺のジャケットと白いワイシャツをきちんと着こなした若い青年の二人組が乗り込んできた。

バスは緑濃い真夏のノルマンディの森や田園の中を走った。この時「自転車かオートバイをレンタルして、バスでバルフルールに行こうと思っていた」と言った私に対して、フロントの人がなぜ驚いたのかがよくわかった。地図を見ると一直線の道になっている。だから私は、そのまままっすぐに行けばいいと思っていた。ところが途中にはフランス語でrond-point(ランド・ポワン)、英語ではround-aboutと呼ばれる「ロータリー」がいくつもあった。そこに入ると出口が3つ4つもあり、ひとつ間違えばとんでもないところに行ってしまう。全てのロータリーに「バルフルール」をいう標識が出ている訳ではない。自分の行く方向にある小さな町の名前を知らないと、そのサークルのなかをぐるぐる廻ることになる。レンタカーに乗っていて助手席に誰かがいれば、その間にGPSや地図で調べて、どの出口で出たらいいか、つまりどの道に進むか教えてもらえるが、1人で自転車やバイクに乗っていたらそれは無理だ。何十もあるロータリーで毎回ストップして、いちいち地図を見ていたら、いつまで経っても目的地には着かない。もちろん道を聞きたくても、ロータリーの近くに人がいる可能性はゼロだ。

私はとんでもない無謀なことを考えていたのだ。走りなれているバスのドライバーが運転しても50分もかかる道を、全く土地勘のない私がバイクを走らせたら、とてつもなく長い時間がかかっただろう。場合によっては道に迷って、その日のうちにシェルブールに戻って来れなかったかもしれない。

バスは村はずれのバス停に着いた。一緒に降りた若い女性に村の観光案内所の場所を聞くと、「この道をまっすぐ行くと港に突き当たるので、そこを左に行くと教会があります。その隣です」と親切に教えてくれた。

観光案内所が開くのは午後2時からで、まだ30分も時間があった。12時30分から2時まではきちんと休むのだ。それはこれまで訪れた美術館や博物館のスタッフも同じだった。隣にある教会の中を覗き、港の周辺をほっつき歩いた後、観光案内所のドアの前で待っていると、スタッフらしき女性が25分前にやってきて中に入りカギを閉めた。そして2時ちょうどになると、中からカギを開けた。

私は真っ先に入って、その女性に話しかけた。「私はフランスからとても遠い日本から来ました。ノルマン・コンクエストにとても興味があり、ギヨームがこの港からイングランドに船で渡ったということで、はるばるやって来たんです」。彼女の最初の言葉は「Unfortunately…」(残念ながら・・・)だった。「実はギヨームがバルフルールの港から出港したというのは事実ではありません」と言ってフランスの地図を取り出し「船を出したのはこの小さな港です」と言いながら〇をつけてくれた。それは聞いたこともない地名だった。ルーアンとかルアーブルよりももっと先にある。バルフルールとは100キロも離れた場所だ。

彼女は言った。「確かに木を切って船を作ったのはここなんですが、ギヨームはここからイングランドに行っていません」。私は「でも、日本のテレビでもそう言ってましたし、私が読んだ本でもみんなそうなっていましたよ」と言うと、「それはlegend(伝説)でしかないのです」と応え、彼女は最後にまた「unfortunately」と申し訳なさそうに言った。ショックだった。でも気にしてもしょうがない。現地に来て、新しい事実がわかっただけでも大きな収穫だと気持ちを切る変えることにした。私はその女性スタッフに「真実を知ることができて良かったです」とお礼を言い外に出た。

中世から残る村の中を私はまた歩き始めた。家々の壁はつながっていて、外敵の侵入を防ぐための外壁の役割も持っていることもわかった。

その時、途中から同じバスに乗ってきた2人の青年が、ずっと同じベンチに腰かけて話し込んでいるが見えた。手には何かの本を持っている。何かの勉強に来た学生だろうか? はるばるこの村にやってきて観光しないのだろうか? 中世からそのまま抜け出たような村の風景に興味はないのだろうか? そのまま前を行き過ぎようと思ったが、勇気を絞りって話かけた。「Excuse me?  Do you speak English?」と。ひとりが「Yes, we are American」と応えた。何と「アメリカ人に英語ができるか」と聞いてしまったのだ。私は尋ねた。「おふたりは私と同じバスに乗っていましたよね。でも観光もされずに、ずっと話し込んでいるので、とても興味を持ちました。村を歩かれないのですか?」

「私たちはクリスチャンのミッショナリー(伝道師)なのです。ある人と会うために、このベンチで待っています」と言う。私は失礼かと思ったが「Are you Mormon?」(モルモン教の方ですか?)と尋ねた。彼らは「Yes!」と応えた。

「私は日本から来ました。日本でもモルモン教の人が熱心に布教活動をしています。ちょうどあなたたちと同じように紺のジャケットを着ているので、そうかと思いました。私も電車の中でモルモン教の人に声をかけられたことがあります。その人の日本語は完璧でした」と言った。

ひとりが応えた「私の母は昔、日本で布教していました。今はすっかり忘れていますが、その当時は日本人と同じように日本語が話せたと言っています」。

「おふたりともユタ州の出身ですか?」と聞くと、ひとりが「私はテキサス州のダラスですが、彼はそうです」ともうひとりを指さす。「私はダラスに行ったことがあり、JFケネディが暗殺された場所も訪ねましたよ」と言った。それから話がはずみ20分も話し込んでしまった。

彼らと別れ再び村の中を探索をした後、5時半にシェルブールへ戻るバスの停留所に少し早めに行くと、彼らはもうそこにいた。「どうでしたか? 待っていた人に会えましたか?」と聞くと「残念ながら、その方は現れませんでした」と言う。「そうですか? それは残念です」と私は言い、「実は、もしよろしかったらカフェにでも行って、コーヒーでもご馳走したいと思ったのですが、コーヒーは飲んではいけないんですよね」と言うと、申し訳なさそうに「もうそのお気持ちだけで、とてもありがたいです」と応えた。

モルモン教では酒もコーヒーも飲むことを禁じられている。そのせいかわからないが、ガンで死ぬ人は驚くほど少ないという話を聞いたことがある。

バスがやって来た。シュルブールから来た時に乗っていたバックパッカーの中年男性も一緒に乗り込む。私はバスでも彼らの近くに座り、モルモン教の戒律について不躾にもいろいろ質問してしまった。「結婚ではできると思うんですが、離婚はできるんですか?」「はい、両方ともできます」「ミッションの派遣先は自分で選べるんですか? それとも強制的に決められてしまうでんすか?」「以前ハワイに行った時、ポリネシアン・カルチャーセンターというところでショーを見ました。そこはモルモン教がやっているんですよね? 南太平洋の島々ではモルモン教を信仰する人が急激に増えていると聞いてます」「そうです。ハワイには教団が運営する大学があるんです」・・・そんな話を彼らがバスから降りるまで延々と続けた。

彼らも私との会話を心から楽しんでいるような表情に見えた。本当にそうならいいのだが・・・。

 ノルマン・コンクエストを描いたタピスリー

8月21日、フランス・ノルマンディのバイユーという村に滞在。ここにはノルマン・コンクエストの様子を刺繍したタピスリー(英語ではタピストリー)があり、世界記憶遺産となっている。

日本ではあまり知られていない小さな村のタピスリーだが、やはりフランス人とイギリス人にとって「ノルマン・コンクエスト」は大きな出来事だったのだろう。多くの観光客で賑わっていたので驚いてしまった。英語とフランス語が飛び交っている。

タピスリーの大きさは縦50㎝、長さが何と70m。それを見ながら音声ガイドで解説が聞けるようになっている。このタピスリーが刺繍された11世紀には文字が読める人が少なかった。だから誰でもノルマン・コンクエストの経緯がわかるように絵物語のようになっている。

最初は、イングランド王のエドワードが、息子ハロルドをフランスに派遣して、縁戚関係にあるノルマンディ公国の王ギヨーム(後のウイリアム)をイングランドの次の王に指名することを本人に伝えに行くという場面から始まる。ところが船が目指す港に着かず、別の公国の領土に不法侵入したということで捕らえられてしまう。この頃にも治外法権という考え方があったのか、ノルマンディ王国の王ギヨームもうかうか手を出せない。その後、身代金を要求されたりといった様々な交渉をする様子が描かれるが、最終的にはハロルドはノルマンディ公国に引き渡され無事にギヨームに会うことができ、イングランド次の王になることを伝えることができた。

その後、ローマ法王立ち合いのもとで次の王位につくことを約束する儀式まで行ったことが、このタピスリーには描かれている。

でも、この話はイギリス側の「1066 Battle Museum」という野外博物館で聞いた話とかなりニュアンスが違う。あちら側では、エドワード王が亡くなる前に、息子ハロルドに次の王になることを命じたことを強調していた。かなりイングランド寄りの話になっている。

ハロルドの父エドワードは、以前乗っていた船が遭難したことがあり、ノルマンディのギヨームに救出されたことがあった。その時「イングランドの次の王様になってほしい」と言った。でもそれは命が救われた安堵感と、そうでも言わないと殺されてしまうのではないかという恐怖心があったからだという風にも言われている。つまり王位を継いでほしいと言ったのは「本心からではなかった」というのが、対岸のイングランド側の主張だ。

つまるところ、エドワードが煮え切らない性格だったために混乱が生じ、フランス・ノルマンディの王がイングランドを征服してしまうというダイナミックな歴史的事件が起こったのではないだろうか。歴史というのは、そんなちょっとしたことで大きく変わってしまう。

ハロルドが戦死する場面もパテスリーにはあった。イングランドに上陸したギヨームの兵隊が放った矢がハロルドの目に命中し絶命したという説がある。その根拠となっているのは、このタピスリーにその様子が描かれているからなのだが、目に刺さった弓が薄くてよくわからない。このタピスリーは写真で紹介されることもあるが、この弓がリタッチされて濃くなっていることもある。何しろ、もう1000年も昔のことなので真偽は不明のままだ。

このバイユーは、多くのアメリカ人も訪れる場所だ。彼らの目的は11世紀のタピスリーではない。1944年のノルマンディ上陸作戦の激戦の跡を見て廻ることだ。いくつかある上陸地点には「オハマビーチ」「ユタビーチ」などといったようにアメリカ風の名前がつけられている。近くには戦死したアメリカ兵の墓地もあり、墓参するアメリカ人が絶えない。

夕方、またホテルからスーツケースを転がしバイユーの駅に行く。次の目的地シェルブールへの切符を買っていると、窓口の人が「後2分で列車が来るから急いで」と言う。慌てて重いスーツケースを持って階段を走って昇る。火事場のバカ力というのだろう。ぎりぎりで列車に飛び乗ることができた。

ファレーズ村に行けなかった! 痛恨のミス

820日、フランス・ノルマンディのカーンという街の真ん中には、海の向こうのイングランドを征服したノルマンディ公国の王ギヨーム(ウイリアム征服王)が1060年頃に建てたお城がある。いまは城壁だけが残っているが、その中には博物館や美術館がある。

今日もホテルでスーツケースを預かってもらい、城壁の門の入口をくぐってすぐのところにある建物でチケットを買う。博物館と美術館の共通券だ。「城壁の中にレストランがあるか」聞くと、今日は月曜で閉まっているという。仕方なしに、またホテルの近くに戻り、カフェでサンドイッチを食べながらコーヒーを飲む。フランスのサンドイッチは四角いパンではなく細長くて硬いバゲットにハムやチーズを挟んだものだ。

それを食べながら、ふと以前フランス語のテキストの編集長をやっていた時のことを思い出した。校正段階でサンドイッチとクロークムッシュというパンのイラストが入れ替わっていることに気づいたのだ。担当者がサンドイッチを日本と同じ四角いものと勘違いしたことで生じた間違いだった。私は言った。「フランスではチーズやハムを細長いバゲットで挟むのがサンドイッチで、四角い方がクロークムッシュなんだ。日本的感覚で判断してはダメだよ」と。私がフランスをひとりでバックパックを背負って歩き廻っていたから気がついたが、他の人が編集長だったら、そのままミスとして世に出てしまったかもしれない。

サンドイッチを食べ終わると。また城壁の中に戻り博物館に入る。私が40年前に見た記憶のあるフランスとイギリスの領土争いの推移を解説したパネルはもうなかった。歴史というよりノルマン人の生活様式や農業や酪農の推移に焦点が当てられていた。おもしろかったのはノルマンディの馬の分布図だ。ノルマンディはサラブレッドの産地なのだが、東側半分では競走馬が飼育され、西側では農耕馬がより多く育てられている。競馬好きの人が見たら興味深いのかもしれない。

博物館から出て、城壁の上を歩きながらのんびりと街の風景を見降ろすと、いくつもの教会や修道院の建物が見える。美術館はサッと見て終わりにしようと思っていた。もう40年も前のことだが、ここには入った記憶があるし、午後には駅からバスでウィリアム征服王が生まれたファレーズという村に行こうと思っていたからだ。

ところが美術館に入ると、前にここに来た時の感覚が蘇った。今とは正反対の真冬だった。降りしきる雪の中、この美術館にたどり着いて中に入った時に、ものすごく暖かなものに体中が包まれたような気がしたのだ。外の雪と寒さをものともしないような厚い壁に覆われて、心からの安心感を得ることができたのだった。

絵を見始めるとすぐに「あと10分で1230分です。午前中の公開時間が終わります」というアナウンスが流れ、現実に引き戻された。近くにいたスタッフに「午後は何時に開くのか」尋ねると「2時からです」と言う。

今日の夕方には世界記憶遺産である「ノルマン・コンクエストの様子を刺繍したタピストリー」のあるバイユーという街に行き、そこのホテルに宿泊する。だが明日の朝早く起きてここに来れば、絵が見られるではないか。私はスタッフに「今日はこれからファレーズに行きますが、明日午前中にまた戻ってきます。このチケットで再入場できますか?」と聞くと、「入れます」と言う。日本だと前日のチケットでは、再入場はできないだろうが、さすが芸術の国フランスだ。

バスの時間までは、ゆっくり時間がある。そうだ、この街のもうひとつの名所である男子修道院をサッと覗いてから、駅に行って2時のバスに乗ろう。ところがこの判断が大きな間違いのもとだった。歩いても歩いてもなかなか男子修道院に着かない。いろいろな人に道を聞きながら、やっとのことで目の前に修道院が見えてきた時にはすでに120分になっていた。

駅に急がないと、午後に1本だけのファレーズ行きのバスに間に合わない。ところがまた道に迷い、バスに乗ろうかとか、タクシーが来ればすぐにつかまえて駅まで飛ばしてもらおうなどと考えるが、バス亭の場所もわからないし、ましてやタクシーなど通りそうもない。

焦って駅に向かって歩いていたが、そのうちに145分になってしまった。日本的感覚ならば、ギリギリでバス停に行けばどうにか間に合うと思うかもしれないが、ここはフランス。バスのチケットを買うにも行列に並ばなければならない。

この時点で私はファレーズに行くのを完全に諦めた。先ほどの美術館にまた戻ることにしたのだ。残念! 男子修道院に寄ろうなどと考えずに、そのまま駅に向かっていれば、ファレーズに行くことができたのに・・・。

美術館の入口に着いたのは155分。自宅に戻り昼食と休憩を終えたスタッフたちが三々五々戻って来る。やはり彼らの生活には余裕がある。「働き方改革」など必要ないのだ。

私はそれから午後4時まで、ゆっくりとこの美術館に収蔵されている作品を堪能することができたのだった。

こんなことを思い出した。日本の絵では空はあくまでも風景の背景でしかない。だが、ヨーロッパの絵画では青空や雲がことさらに美しく描かれている。別の表現を使えば「力が入っている」のだ。それは、空というものが、人間の住む地上と神がいる天国とを結ぶ非常に重要な場所であるからだ。そんなことを美術の専門家に話して感心されたことがあった。

それを実感したのはもう40年も前、そう、ここカーンの美術館でのことだった。

 

フェリーでフランスのカーンへ

819日、今日はポーツマスからフェリーに乗ってフランス・ノルマンディのカーンという街に行く。

昨日の夜に朝7時にタクシーを呼んでもらっていた。7時ちょっと前にフロンに降りて行ったが、スタッフは朝食の方の仕事にかかりっきりでなかなかチェックアウトができない。カードを返しながら「昨夜タクシーを予約したんですが・・・」と言うと、「外で待っている」と言う。だったら早くしてよ!

もう75分になっていた。タクシー運転手を待たせてしまったので、I’m sorry for my  5 minutes delay. と謝り、Japanese are very punctual, so I feel sorry.(日本人はとても時間に几帳面なんで、申し訳なく思っています)と付け加えた。すると、運転手は「知ってるよ。何か月か前に電車が1分早く出発しただけで、車掌がお詫びのアナウンスをしたんだろう?」と言う。そのニュース知ってるんだ。私は「1分ではなく40秒です」と時間に厳格な日本人らしく訂正した。

10分ほどでインターナショナル・ポートに着いた。私は車ではなく徒歩で船に乗る。それをon foot passengerと呼んでいるらしい。ターミナルのカウンターの前の行列に並んでいる時に、バックパックの中に入れてあったはずのeチケットのプリントがないことに気づく。きっとスーツケースにいれてしまったのだろう。でも、スーツケースを床に広げて出すのも面倒だ。カウンターの女性スタッフに「いまチケットのプリントが出て来ないんですが、そのiPhoneに写真があります」と言って、それを見せた。そこには予約番号が書いてあるので、それを見ればOKなはずだ。彼女は目を細くして番号を読みとり、パソコンに打ち込むと「OKです。帰りのシェルブールからプールまでのチケットも一緒にプリントしておきましたから」と言って、乗船券と一緒にeチケットも渡してくれた。

朝食がまだだったので「船にレストランはありますか?」と聞くと、Yes!と応える。もうひとつ、フランスのカーン港は市街からかなり離れたところにあるので、「港から町の中心地までのバスがありますか」と聞くと、「あります。でもバスの時間や料金についてはわかりません」と言う。バスがあることがわかれば十分なので、Thank you!とお礼を言った。

7時半から乗船開始。出港は815分だから、早めに港に来てよかった。実は、昨日7時半ごろにホテルにタクシーを呼べば十分に間に合うと考えたのだ。だが、海外では日本ならすぐに済むことでもとんでもなく時間がかかることがある。念には念を入れてタクシーを7時に呼んだのだ。

他の乗船客の後について行くとバスが待っていた。それで船まで行くらしい。飛行機ではバスに乗ってタラップまで行くことはあったが、ターミナルから船までバスというのは大西洋横断の半月のクルーズに乗った私でも初めてのことだ。

バスからは、乗用車がどんどん船に入っていくのが見えた。3分ほどで船に着く。船の横に取り付けられた昇降口から船に乗り込む。

入口のすぐ前が荷物室になっていて、私は大きなスーツケースをその中に入れた。安心した。大きな荷物を持って船の中を歩き回るのは大変だと思っていたからだ。船が出港してからしばらくすると、その部屋にはカギがかけられ、荷物が盗まれないようになっている。

フロントでレストランの場所を聞くと、上の階に3つあり、そのひとつはビュッフェだと言う。朝食を食べ終わると、バックパックからパソコンを取り出して、ブログを書くことにした。ところが画面が真っ黒で何も表示されない。充電切れのようだ。そういえば、今朝起きた時、iPhoneも充電率が20%になっていた。変圧器も多種多様なプラグも持ち歩いているので、世界中どこでも電源が使える。昨晩もiPhoneを充電して寝たはずだったのに、起きてみると全く充電されていないことに気づいた。ソケットの上にスイッチがあり、そこを押さないと電源がオンにならなかったようだ。仕方なしに部屋を出るまでの30分間だけ充電することができ、充電率はどうにか40%まで回復していた。だからパソコンは充電率がゼロになっていて起動できなのだ。これではブログは書けない。

諦めてデッキに出ると、細長いベンチがあったので、そこで昼寝をすることにした。朝8時半に出港してフェリーはフランス・ノルマンディのカーンに午後3時に着く。ということは6時間半かかると思いがちだが、そうではない。イギリスとフランスには1時間の時差があり、フランスの方が1時間早い。だから5時間30分の船旅ということになる。iPhoneは便利だ。タイムソーンが変われば自動的にその現地時間に変わる。以前のよう時計を調整する必要はない。

ベンチに寝転がっていると、時々船が揺れるのがわかる。懐かしい感覚。43日から15日まで、私はフロリダのフォーローダデールからスペイン・バルセロナまで大西洋横断クルーズをした。その時のことを思い出す。船で出会って親しくなったカレンとボブ夫妻。80歳なのに若々しくダンディなメルリン、いつも酒を飲んでいたカナダのトロントに住むイギリス人のジェフ・・・毎日同じレストランの同じテーブルで食事をして楽しく語らった。みんな元気だろうか? 

フェリーがフランス・カーンの港に着いた。またバスに乗って、ターミナルに行き入国審査を受ける。まだイギリスはEUから脱退していない。なのに、パスポート・チェックが必要なのだろうか?  同じEU内なら関税もかからないし、出入国の際の審査も必要ないと思っていた。

ターミナルを出たところにバス停があった。時刻表を見ると、船の時間に合わせてあるらしく、330分の出発になっていた。2つのバス会社のバス停があり、どちらとも同じ330分の出発になっていた。そのひとつに乗り込む。料金は2ユーロ。

バスは30分ほどでカーンの駅に着いた。どうやら市街地はその駅の反対側にあるようだ。私が泊まるホテルはカーンの真ん中にあるお城の近くだ。同じバスに乗ってきた女性にお城までの行き方を聞くと親切にも途中まで一緒に行ってくれて、「この道をまっすぐに行けばお城があります」と教えてくれた。カーンの出身でいまはイギリスに住んでいると言う。遠回りさせてしまったので、丁寧にお礼を言った後で「フランス語と英語の両方ができていいですね」と言ったら、「実は日本語も勉強しています。でも、とても難しくて」と言う。

お城までの道を歩く。実はもう40年も前にこのカーンに来たことがある。会社に入って2年目の年末と年始に2週間の休暇をとって訪れたのだ。その時は真冬でとんでもなく寒かったことを覚えている。カーン城にある博物館と美術館に入った。博物館にはフランスとイギリスとの闘いの歴史を解説するパネルがあった。このカーンという街はある時はイギリス、またある時はフランスの領土になっていたことを知った。カーンはCaenと綴る。不思議なスペリングだ。それはきっとフランスにもイギリスになり得ないこの街の運命を語っているようにも思えた。あれから40年。いまの私は『アダムのリンゴ 歴史から生まれた世にもおもしろい英語』という本を書けるまでの知識を持つようになった。あの頃は考えられなかったことだ。

駅からスーツケースを転がして、やっとのことでホテルにたどり着いた。駅からお城までこんなに遠かったっけ? こんなに大きな街だっけ? 若い私にはもっとこじんまりしていたように思えた。

子供の頃に行った場所に大人になっていってみると、ものすごく小さく狭い場所に感じることがある。でも、最近の私は記憶よりも広く大きく感じることが多くなっている。すごく近くて歩いてすぐだと思っていた場所が、思いのほか遠かったりする。それは、もしかすると私の脚力の衰えから来ているのかもしれない。

ホテルにチェックインして部屋に入り、すぐにブログを書こうとパソコンの電源を入れるが、やはり画面が真っ黒で何も反応しない。少し充電すればすぐに回復するだろうと思い、1時間ほど夕飯を食べに外に出て帰って来たものの、やはり画面は前のまま。何の反応もない。

弱った! もう3日もブログを書いていない。その間には、私の人生においても忘れがたく強く記憶に残る貴重なことがたくさん起こった。このままパソコンが直らないと、96日に日本に帰るまでブログも書けないことになる。iPhoneは画面が小さく、かなり目に負担がかかるので、極力見ないようにしている。だからiPhoneでブログを書くことは絶対に避けたい。

かなり長い間、プラグやコンセントや変圧器、パソコンの電源スイッチをいじくってみたのだが何の反応もなかった。その時だった。黒い画面にちらっと私のパソコンの「surface」という白い文字が浮かび上がった。しかしすぐに消えてしまった。

それから10分ほどして、またsurfaceの文字が浮かび上がり、画面に鮮やかな写真が現れたのだった。やった! 直った! やはり充電に時間がかかっていたのかもしれない。

だが、iPhoneの時間表示を見るともう12時(パソコンの時間は日本時間のままになっている)。船に乗ってはるばる英仏海峡を越えてフランスにやってきて疲労困憊の状態だったので、ブログを書くことを断念する。

もう3日も書いていない。これは「ブログのための旅」のはずなのに・・・。

白いチョークの絶壁「セブンシスターズ」

818日。前の晩9時に着いたブライトンのホテルは最悪だった。「ホステル」というだけあってバックバーカーや多く宿泊しているユースホステル、あるいはYMCAのような感じの宿泊所。二段ベッドで一部屋に8人が2段ベッドで寝る部屋もあるのだが、私はひとり一部屋でトイレ・シャワー付きの部屋を予約していた。この宿泊所の中では特別室みたいなもんだと思っていた。だが部屋は汚く狭い。ベッドに寝るのもはばかられるような不潔さだった。

バックパッカーが泊まるようなホテルの口コミには十分注意しなければいけない。彼らは「安い」ということをことさらに評価する。コスパが良ければ高評価にしがちなのだ。高くて豪華なホテルだと、お客さんの期待度も高いので、ちょっとしたことで低評価になる。でも安いホテルは、宿泊客があまり多くを期待しないだけあって、口コミの評価は異様といえるほど高くなることがある。それは承知だったのだが、今回はそれに騙されてしまった。

できるだけこのホテルの部屋にはいたくなかったので、私としては特別に朝早く起き、スーツケースを預けて8時半のバスで「セブンシスターズ」という海辺の白亜の崖を目指す。2階建てのバスで走ること1時間。一番近くのバス停に着いたのだが、どっちに行ったらいいかわからない。レストランの看板が見えたので、まずそこで朝食。目玉焼きとベーコン、ソーセージにマッシュルームのバター焼き。特にマッシュルームが絶品。マッシュルームってこんなにおいしかったんだ。

近くに観光案内所があったので地図をもらう。白い崖にはいくつもの行き方があるようだが、私は白い崖が一番遠くまで何重にも見えるコースを選んだ。牛や羊が放し飼いにされている牧草地や森の中を歩くこと約30分、海辺に着く。目の前には高さ150メートルもの白亜の崖が見える。「白亜」は英語でchalk、「チョーク」だ。私が学生の頃は先生が黒板に板書するのに「白墨」を使っていた。それがチョークだ。いまも学校で使っているのだろうか? だいたい教室に黒板自体がないのか?

「イギリス」は、その昔「アルビオン」とも呼ばれていた。古代ローマ時代にイギリスに遠征したカエサルが、海からブリテン島の白い崖を見て「アルビオン」(白い国)と読んだことから来ているという説もある。albとは「白い」ということだ。「アルバム」も、ラテン語で人々に告知をするためのalbus「白い板」から来ていて、それが切手や写真を貼る白いノートからレコードまでを意味する言葉となった。

イギリスの英仏海峡に面した白い絶壁がいくつもあるが、セブンシスターズはその中でも最も有名な景勝地だ。

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またバスに乗って1時間、2時にブライトンに戻り、ホステルでスーツケースをピックアップ。大急ぎでタクシーに乗り駅に向かう。3時にポーツマスのホテルで妻と会うことになっている。妻は7月と8月の2か月間、ボンマスという街の語学学校に通っている。

電車で1時間、ポーツマス3つ手前のFrattonという駅に着きホテルにチェックイン。部屋に入らずにそのままフロントの前で待っていると、30分ほどして妻がタクシーでやってきた。とても元気そう。若いことからの夢だった海外留学をこの歳でやっと叶えている。

我々の頃は海外留学なんて夢のまた夢だった。学生時代に金沢から来ていたクラスメイトがナンシーというドイツ国境に近い街の大学に留学した。ナンシーと金沢は姉妹都市で、毎年ひとりが選抜されて1年間留学できたのだ。試験を受けた後はくじ引きだったと言う。本当にうらやましかった。あと産経スカラシップなんていうのもあった。あの頃は留学がほんとうに狭き門で、優秀な学生でないとできなかった。

妻はすでに1か月半、若い学生に交じって英語学校で勉強している。日曜日は学校の主催するオプションツアーもある。Bathという古都やストンへンジにも行ったし、明日の日曜にはワイト島という人気観光地へのツアーにも参加すると言う。

ホテルのロビーで話し込んでいたら、歩道を大勢の人たちが歩いている。フロントの人に聞くと、ホテルのすぐ裏にフットボール(イギリスでは「サッカー」をこう言う)チーム、ポーツマスサッカー場があって、いまオクスフォードとの試合が終わったばかりだと言う。妻は550分のバスでボンマスに帰らなくてはいけない。慌ててフロンでタクシーを呼んでもらうと、「サッカーの試合が終わったばかりでホテルに来るのに20分かかる」と言う。それでは間に合わない。仕方なしに近くのバス停を教えてもらい、そこから港近くのバス中央ステーションに行く戻ることに。45分で行けるだろうか? かなり焦ったが、後で妻に聞くと出発の10分前にはバスに乗れて、ボンマスには夜8時に到着したと言う。

夕飯は近くのケンタッキーフライドチキンで済ませ、部屋に戻ってブログを書こうとしたが、珍しく朝早く起きたこともあり疲労困憊で書かずに寝てしまった。

さて、明日はインターナショナル・ポートからフェリーに乗ってフランス・ノルマンディのカーンという街に向かう。船で国境を越えるのだ。

1066年の戦場跡、その地名はBattle

いろいろ事情があって、817日から20日の4日間ブログが更新できなかった。だが、この4日間は私にとってとても充実したものとなった。

817日のことから書いてみたい。昨日のドーバーで、駅にも城にもスーツケースを預かってくれるところがなかったので、今日はホテルに荷物を預けてバックパックだけを背負って廻ることにする。

まずヘイスティング城へ。道を聞きながらWest Hillというケーブルカーの駅まで来た。これに乗ってさらに丘を上がり、お城に行くのだと思っていた。ところがケーブルカーに乗ると下に降り始めてトンネルに入っていくではないか。下の駅の周辺には、中世の面影を残す家々が並んでいた。多くがカフェやパブだった。それがヘイスティングの旧市街だった。ケーブルカーは丘を隔てて海側にある旧市街と駅側の新市街を結ぶためのものだったのだ。しばらくその趣のある家々が並ぶ通りを歩いていたのだが、地図を見るとミニチュア鉄道があることがわかった。

カフェに入ってその駅までの行き方を聞くと、目と鼻の先だった。イギリスには、このようなミニ鉄道がいたるとこにある。距離の長い本格的なSLから、遊園地の小さなミニ列車のようなものでさまざま。微かな記憶だが、『イギリスのミニ鉄道』という本も出ていたような気がする。驚きなのはほとんどが収益目的ではなく、地域の人々のボランティアに支えられていることだ。だからほとんどのminiature trainamateur trainでもあるのだ。

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距離半マイルのその鉄道に10分ほど乗ると、もうひとつの駅に着いた。近くには「漁師博物館」と「難破船博物館」が並んでいて、両方とも無料だったので見学する。

ケーブルカーの下の駅から今度は頂上駅に戻り、歩いてヘイスティング城へ。フランス・ノルマンディ公国の王だったギヨームがフランスから渡ってきて建てた城だ。ほとんど廃墟になっているが、敷地のその一角に建物がありノルマン・コンクエスト(ノルマンのイギリス征服)に関する映像を流していた。

今回の旅の一番の目的は、そのノルマン・コンクエストの痕跡を辿ること。フランス・ノルマンディ公国のギヨームという王が船に軍隊と馬を乗せてブリテン島に上陸し、イングランド王ハロルドを破って、何とイングランドの王様になってしまう。ギヨームはイングランドでは「ウィリアム」と発音が変わり、「ウィリアム征服王」というニックネームで呼ばれるようになる。これが今のイギリスの王室の始まり。ということはイギリス王室の祖先は、もともとフランスのノルマン人だったということだ。

以前、エリザベス女王が「我が国は他の国に侵略されたことはありません」と言ったことがあった。それに対して、ある人が「でもノルマン・コンクエストがありましたが・・・」と言ったら、女王は「あれは私どもがやったことです」と応えたと言う。

もうひとつ重要なことは、ノルマン・コンクエストにより大量のフランス語が英語に入って来たことが挙げられる。フランス語が王国貴族の、英語が庶民の言葉となり、イングランド二重言語の国となってしまう。このあたりのことは拙著『アダムのリンゴ 歴史から生まれた世にもおもしろい英語』に詳しいので、ぜひ読んでいただきたい。

まだスーツケースをホテルに預けたまま、電車で3駅先のBattleという街に行く。道を聞きながら歩いて30分、ハロルドとウィリアムの軍隊が戦った「1066 battle field」という広大な野外博物館の入口にたどり着いた。

日本語のオーディオガイドを聞きながら、起伏に富んだ、だった広い野原を羊の群をかき分けかき分け歩く。音声の解説は、双方の軍隊のぶつかり合いを時系列で理解できるようになっている。イングランド軍は丘の上に陣取っていた。麓にはノルマン軍。どうしてもイングランドが有利だ。ノルマン軍が攻撃するには重い鎧を着て丘を登らなくてはならない。私はバックパックを背負っていただけだったが、それでも登るのに息が切れるほどの急斜面だった。

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1066 Battle Fieldは広大な敷地の野外博物館

おまけにイングランド軍は地元で、当然地の利がある。兵隊が足らなくなったら、どんどん戦力を補給すればいい。だが、ノルマン軍はそうはいかない、フランスから船でやってきたのだから、救援を要請したくても、仲間は海の向こう。そんな不利な状況の中で、なぜノルマン軍が勝利を収めることができたのか?  そして、そもそもフランス・ノルマンディ公国の王がなぜイングランドに攻め込んだのか? 双方の軍隊の武器や戦法はどう違っていたのか? 2人の王の性格は?・・・など、大量の情報を仕入れることができた。

話すと1時間では足りないかもしれない。103日と31日の2回、NHK文化センターで「英語はこんなにおもしろい」というテーマで講演をするので、その時にいろいろ興味深い話ができると思う。お楽しみに。

結局そのBattleの「battle field博物館」には3時間もいた。また駅まで歩き、列車に乗ってヘイスティングに戻ってホテルでスーツケースを受け取った時には、夕方6時半になっていた。

それからまた、大きくて重いスーツケースを引きずりながら駅に戻る。また切符を買って列車で1時間半。Brightonという若者に人気の街に着く。ホテルにチェックインした時にはもう夜9時を過ぎていた。

大きなスーツケースを転がしてドーバー城見学

カンタベリーCathedral Gate Hotelでコンチネンタル・ブレクファストを食べ、9時にホテルのすぐ横にある「Canterbury Cathedral」へ。私は長いこと、英国国教会の総本山はロンドンのセント・ポールだとばかり思っていた。しかし実際はここカンタベリーの大聖堂が総本山なのだ。

12世紀にトーマス・ベケットという大司教がいた。ヘンリー2世に気に入られて大法官となったものの、その後仲違いしてしまう。王が「あのいまいましい男を誰かに消してほしいものだ」と呟くと、忖度し過ぎた部下によって殺害されてしまう。

ベケットは死後に聖人となり、数多くの巡礼者がこのカンタベリー大聖堂を訪れるようになった。私が宿泊したホテルも、そのような巡礼者のために15世紀に営業を始めた旅館だった。

大聖堂の中にはベケットが暗殺された部屋や、フランスとの百年戦争で活躍したフランス軍に勝利したエドワード黒太子の墓もあった。黒い鎧を着用していたので黒太子(英語でBlack Prince)と呼ばれ、庶民の間でも人気があったが、王位に就く前に病気で亡くなってしまった。

次に向かったのは「ローマン博物館」。古ローマ時代には、このカンタベリーに多くのローマ人が住み始めていた。その時には今現在より繁栄しており、紀元1世紀から2世紀当時の様子を現在のアーチストが想像して描いた絵も展示されていた。とても不思議なのだが、その後あれだけ多くのローマ人は軍隊の撤退とともに、どこかに姿を消してしまい、街は廃墟のようになってしまう。

カンタベリー・テイルズ」という施設も面白かった。ペスト(黒死病)が蔓延するロンドンからカンタベリーまでの巡礼をしていた一行が、旅の途中でいろいろ奇想天外な話を披露し合うという「カンタベリー物語」。音声ガイドを聞きながら、その物語を追体験できるという趣向だ。

午後1時、カンタベリー・ウエスト駅から列車に乗りドーバーへ。電車を降りた時にはかなり強い雨になっていた。大きなスーツケースを運んでいるので、駅か観光案内所で荷物を預けてドーバー城を見学しようと考えていたのだが、それはちょっと甘かった。タクシーの運転手に聞くと「観光案内所では預かってくれないだろうから、城に行ってチケットカウンターで聞いてみたらどうか」と言う。とにかくタクシーで城に向かう。チケット売り場では、案の定「自分の荷物は自分で責任をもって運んでほしい」と言う。チケットもシニア料金で19ポンド(2850円)。高い!

もう半分やけくそになって、ゴロゴロと大きなスーツケースを転がして坂を昇り、お城を見学する。塔の上に昇ったり、中世に掘られたトンネルに入る時だけは、あまり人目につかないところに置いて、階段を上り下り。

日本が特殊過ぎるのかも知れないが、「おもてなし」の精神はないのだろうか? 例えば日本を訪れた外国人が大きなスーツケースを運んで姫路駅に行き、そこから姫路城に向かう。その時に、その荷物を預かってくれるところがなく、姫路城の天守の上まで大きな荷物を背負って昇るだろうか? たとえてみれば、私がやっているのはそういうことだ。日本なら観光客の利便を考えて、駅にもお城にも荷物預かり場を設置するだろう。

お城のチケットカウンターに戻り、「駅までどうやって戻ったらいいのか」聞くと、「タクシーがいい」と言い、電話で呼んでくれた。電話代と手数料だけもお金を払おうとしたが「いらない」と言う。何だ、とても親切じゃないか!

ドーバーの駅からアシュフォードという駅で乗り代えて、今日のホテルがあるヘイスティングに向かう。

このアシュフォード駅は、正式名称が「アシュフォード・インターナショナル」。なかなか立派な駅だった。近くに大きな「国際空港でもあるのだろうか?」と不思議に思い地図を見たら、ロンドンとパリを結ぶ「ユーロ・スター」がこの駅で停車した後、かの「ユーロ・トンネル」に入るということがわかる。そうか! ユーロ・トンネルはドーバーから潜っているんじゃなかったんだ。