本を書く前に来るべきだった
やはりどうしてもリンカンが暗殺された桟敷席が見たくなり、朝8時にフォード劇場の前に並んで一番早い9時からの整理券をもらう。
どうも日本人には、この時間指定のチケットというのは馴染みがなく、わかりにくいようだ(東京ディズニーランドにはあると思うのだが・・・)。以前アトランタのニュース専門チャンネルCNNのスタジオツアーに行った時も、チケットを購入した際に係員に、9時30分のツアーのチケットなので、時間になったら入口の前に並ぶように言われた。時間になってそこに行くと、私の前に日本人のカップルが並んでいた。彼らは入口で止められ、私は入ることができた。どうやらチケットを買ってすぐに入場しようとしたようだ。なぜか止められたか理由がわからないようだったので、「ここは時間指定なんです。チケットに印刷されている時間に入るシステムになっているんです」と説明してあげたことがあった。
9時になり、まず地下のフォード劇場博物館へ。リンカンの人となりやブースが実際に暗殺に使ったという銃まで展示されている。その博物館からスロープを上がって行くと劇場なのだが、通路の壁の両側に暗殺当日リンカンとブースがそれぞれどんな行動をしていたかわかるパネルの解説があった。リンカンは当日になって急に観劇に行くことに決め予約したのだが、その情報がまたたく間にブースにもたらされたことがわかる。
劇場に入る。リンカンが暗殺された桟敷席は、いまも星条旗の星とストライプで飾られていた。ブースは背後からリンカンを撃つと舞台に飛び降り、その時に脚を骨折した。用意してあった馬で逃走。そしてSamuel Muddという医者のところに行き、治療を受けたのだが、裁判ではその医者も暗殺組織の仲間だと断定され終身刑となり、His name is mud.「(名声が)地に堕ちる」という表現が使われるようになったということは、何日か前にも書いた。今でも「マッドは無罪だ」と主張する人たちが運営するネットのサイトがあると聞いたことがある。
通りを挟んだ反対側の建物には「暗殺後にリンカンとブースがどうなったか」を解説するAftermath Exhibitsという展示があった。aftermathとは「(事件・戦争などの)結果・余波」という意味。入口のすぐ前にリンカンに関する本が塔のように重ねられていて驚いた。その数1万5000冊で、本の塔の高さは何と10メートルだ。
ブースは12日間の逃走の末に射殺され、脚の骨折の治療をしたMuddは大統領恩赦で釈放されたそうだ。『アダムのリンゴ』を書く前にここに来ていればなあ・・・。
午後はアメリカ美術館と肖像画美術館に。ヨーロッパ絵画もあるナショナル・ギャラリーより、アメリカ絵画中心のこちらの美術館の方が好感が持てた。アメリカの大自然を描いた絵が多い。肖像画美術館と一緒になっているので、アメリカを代表する有名人たちの顔も知ることができた。『華麗なるギャツビー』を書いたスコット・フィッツジェラルドの肖像画もあった。こんな顔をしてたんだと思い撮影。
夕方、Penatgon City駅のモールのフードコートに日本の高校生がいた。なんでこんなところに日本人? 偶然同じテーブルになったので、久しぶりに日本語で話す。沖縄の高校生・大学生でアメリカと日本政府のプログラムでワシントンDCとNYに行くと言う。定年間近の私からすると本当にうらやましい。これからの頑張次第で、どんどん人生が開けるはずだ(私自身のことを振り返ると、27歳から英会話のトレーニングを始めて、海外を自由に歩けるようになった)。彼らにも、今回の研修旅行が未来を大きく変えるきっかけになることを祈る。
ホテルのシャルトルが20人以上乗れる大きなバスに代わっていた。ホテル側もこのままではダメだと思ったのだろう。前のドアのガラスに2つのホテル名が印刷された紙が貼ってあるだけだが、全員がゆったりと座れたので嬉しくなってしまった。当然のことなのに・・・。
明日は朝8時45分の飛行機でフロリダの娘のところに行く。