旅三昧&ときどき読書+映画

私は小泉牧夫。英語表現研究家という肩書で『世にもおもしろい英語』『アダムのリンゴ 歴史から生まれた世にもおもしろい英語』(IBCパブリッシング刊)という本を書いています。2018年4月に 出版社を退職し、41年にわたる編集者生活を終えました。いま世界中を旅しながら、本や雑誌記事の執筆とともに、旅先ではこのブログを書いています。お金はありませんが、時間だけはたっぷりある贅沢な旅と執筆と読書と映画の日々を綴っていきたいと思います。

旅三昧&ときどき読書+映画

私は小泉牧夫。英語表現研究家という肩書で『世にもおもしろい英語』『アダムのリンゴ 歴史から生まれた世にもおもしろい英語」(IBCパブリッシング刊)という本を書いています。2018年4月に出版社を退職し、41年にわたる編集者生活を終えます。それからは世界中を旅しながら、本や雑誌記事の執筆をする予定。お金はありませんが、時間だけはたっぷりある贅沢な旅と執筆と読書と映画の日々を綴っていきたいと思います。

ピカソの絵を見てユーミンの才能を想う

朝8時半過ぎにホテルを出てピカソ美術館に。フロントでは「歩いて10分」と言っていたが、教えてもらったようにホテルを出て左に行き、3つ目の路地を右に曲がってまっすぐ行くと5分ほどで着く。こんなに近かったんだ。実はもっと先にあると思い、歩いてくる人に聞いたら「ここだ」と言って目の前の建物を指す。その人は美術館のスタッフだった。大きな看板もないので、よくわからなかったが、小さく「チケット」と書いた標識があった。

一番前に並んで20分ほど待つと扉が開く。チケット購入画面がプリントできなかったのでiPhoneで写真を撮ったのだが、それを見せると入場することができた。パックパックを預けるコインロッカーがあったが、私は昨日スリに小銭入れを盗まれていたので、コインを持っていない。盗まれなかったカードでお金を降ろして(降ろせるのは札だけ)水でも買って、コインを入手しなければダメかなと思ったが、「コインは持っていない」と言うと「両替もできる」と言う。「カードきり持っていない」と言うと、「こちらでもいい」と言ってクロークで預かってくれ、番号札を渡される。

さすがピカソ美術館、日本語の音声ガイドもある(私は音声ガイド付きのチケットを購入していた)。

ピカソが14歳の時に描き美術展で入選した「初聖体拝領」という絵があった。その時代には、宗教をテーマにした大きな絵が選ばれる傾向にあったため、絵の先生と父親に勧められてこの絵を描いて出品したと言う。次の部屋にあるはすの「科学と慈愛」は「修復あるいは貸出」のため(どちらなのだろう?)、代わりに色の薄い写真が展示してあった。

ピカソは青年時代には、これまでの伝統的な絵画の手法を身に付けるとともに、自分自身の発想と感性で自由に絵を描いた。プロともなると、その絵を見ただけでどのようなタッチでどのような手法で描いたものか、そのプロセスまで瞬間的にわかると言う。以前、荒井由実の「ルージュの伝言」という自伝を読んだのだが、彼女は何色と何色をそれぞれ何%の割合で混ぜると、どのような色になるかを完全に把握していた。美術大学の受験の時も、芸大で評価される絵と多摩美向けの絵ではまったく傾向が違うので、それぞれ違う先生に習っていたと言う。何という深い世界なのだろうか? そんな絵を描く時に身に付けた感性や知識が、彼女の音楽の創作にも強く生きているのではないか、とかなり前から思っている。

私は知らなかったのだが、ピカソは一時静物を描くことに熱中していたこともあったと言う。テーブルの左側に花瓶に差した花を配置し、食器や果物なども置かれていた。音声ガイドによれば、構図はセザンヌマチス、絵の具の厚塗りはゴッホ、輪郭の描き方がはゴーキャンの手法を意識したのではないか?とのことだった。

スペインの画家ベラスケスには「ラス・メニーナス」(女官たち)という作品があるが、ピカソの同じ題の絵もあった。その部分部分のスケッチも。キュビズムの手法を使い、ピカソ独独自の解釈で描いたベラスケスの絵のパロディだった。元の絵には宮廷画家だったベラスケス自身も左奥に控えめに描かれているのだが、ピカソの絵では一番目立つように巨大に描かれていた。

私はもう30年も前、マドリッドで「ゲルニカ」を見たことがある。この絵は、以前はNYのMoMa(近代美術館)の2階への階段を上がったところに展示されていたが、ピカソが「スペインの右翼独裁政権が終わり民主主義が復活したら故国に戻してほしい」との遺言を残したために、スペインに返還されたばかりだった(フランコが亡くなって5~6年が経っていたと思う)。プラド美術館の別館に数多くのスケッチともに展示されていた(いまはマドリッドの他の美術館にあると聞いた)。

青の時代やキュビズムの作品など、ピカソの絵画はNYのMoMaにもたくさん展示されている。世界のいろいろな美術館に分散されているのにもかかわらず、本家本元のピカソ美術館にこれだけの作品が展示されているのは、数多くの作品を描きそのどれもが最高傑作だからなのだろう。

ピカソ美術館を出て両替所を探す。やはり少しはユーロの現金を少しは持っていないとまずい。盗まれなかった現金120米ドルをユーロに変えることにする。立派なドイツ銀行のビルに入って聞くと、近くの教会の周りには両替所がたくさんあると言う。別の銀行らしき建物に入り聞くと、そこでユーロに交換できると言う。待っている人が2人いたのでその後に並んだのだが、1人につき10分以上時間かかかっている。結局ドル紙幣をユーロにに変えるのに30分以上かかってしまった。 

外に出ると、まわりにはいくつも両替所があった。立派な建物でなく、街角のちょっとした窓口だったが、そこならほんの3分ほどで換金できたのだ。

少し歩くと、街で一番賑やかなランブラス通りに出た。地図を見るとすぐ近くに「グエル亭」があったのでチケットを買って入る。あまり期待していなかったのだが、なかなか充実した博物館だった。オーディオガイドを聞きながら邸内を巡ると、サグラダファミリアよりもグエル公園よりもガウディの偉大さがよくわかった。

グエルは1878年のパリ万博で、ある展示物を大いに気に入り、その設計者を探すと同じスペイン人のガウディという男だということがわかった。最初は、家の中の家具など小さなものを設計してもらっていたのだが、最終的に彼の邸宅全体を設計してもらうことになった。床も天井も柱もドアも、ガラスの窓枠もステンドグラスにも、当時の最新技術と芸術的手法が駆使されていた。あまりにも興味深かったので、何と3時間も滞在してしまった。

再びランブラス通りを歩いて港の方に行くと海洋博物館があった。昨年発行した「アダムのリンゴ」という本では、大航海時代に生まれた英語もたくさん紹介したので、見学してみたかったのだが、1日に3つの博物館をはしごすること自体ちょっと無理があるような気がして諦める。もう歳だし、私のように集中して展示物を見るようなタイプだと、疲れ切ってしまい、体調を崩すこともありうるのではないかと思ったのだ。次に来た時にゆっくり見ることにしよう。

港の近くのバーで遅めのお昼を食べる。イカリングのサンドイッチ、サラダ付きはとてもおいしかった。そこからモンジュイックの丘を少し上がると、ロープウエイの駅があった。3日前に買った4日間有効のチケットが使えると思い、20分ほど並んでいると、乗る直前になって係員がチケットをチェックして「このチケットでは乗れない」と言う。仕方なしに、もう一度窓口に行ってチケットを買い行列に並び直す。さらに待つこと20分、やっと乗ることができた。

地上から数十メートルの空中散歩・・・と言えば、聞こえはいいが、高所恐怖症の私には地獄のようだった。ロープは私のホテルの近くの桟橋まで続いていた。塔の上の駅に着くと、エレベーターがあったのでそれに飛び乗り、ほうほうの体で下りて来た。

私は昭和34年に東京タワーに昇ったことがある。完成した直後のことだ。その時、確か上の展望台から階段で歩いて降りたような微かな記憶がある。その時は、まだ高所恐怖症ではなかったのかもしれない。

ホテルに戻り、洗濯機と乾燥機があるか聞くと、ホテル内にはなくて、歩いて5分ほどのところにコインランドリーがあると言う。また札を崩してコインを大量に持っていないといけないのか、スペイン語のインストラクションを解読しなければいけないのか・・・などと少しうんざりしていたのだが、行ってみると、若い女の人がいて、洗濯物を持ってきてもらえれば、8.5ユーロで洗濯から乾燥までに全てやってくれると言う。一安心。

さっそくホテルに戻り、洗濯物を持っていくと1時間半後に取りに来てほしいとのこと。ホテルに帰り本を読み、そこにいくともう全て終わり、洗濯物をカゴに入れてくれていた。チップも含め10ユーロ払う。