旅三昧&ときどき読書+映画

私は小泉牧夫。英語表現研究家という肩書で『世にもおもしろい英語』『アダムのリンゴ 歴史から生まれた世にもおもしろい英語』(IBCパブリッシング刊)という本を書いています。2018年4月に 出版社を退職し、41年にわたる編集者生活を終えました。いま世界中を旅しながら、本や雑誌記事の執筆とともに、旅先ではこのブログを書いています。お金はありませんが、時間だけはたっぷりある贅沢な旅と執筆と読書と映画の日々を綴っていきたいと思います。

旅三昧&ときどき読書+映画

私は小泉牧夫。英語表現研究家という肩書で『世にもおもしろい英語』『アダムのリンゴ 歴史から生まれた世にもおもしろい英語」(IBCパブリッシング刊)という本を書いています。2018年4月に出版社を退職し、41年にわたる編集者生活を終えます。それからは世界中を旅しながら、本や雑誌記事の執筆をする予定。お金はありませんが、時間だけはたっぷりある贅沢な旅と執筆と読書と映画の日々を綴っていきたいと思います。

日本のYMCAのsound(サウンド)はsound(健全)

5月に入ってからも、退職とクルーズ両方の後始末でてんてこ舞い。だがうれしいことに、これからの仕事の打ち合わせも。

51日(月)、サムソナイトに電話。クルーズで壊れたスーツケースの見積もりを頼む。添付ファイルで届いた書類に必要事項を書き込んで、スーツケースに入れて送ってほしいとのこと。明日、宅配便が取りに来るという。

連休後半の3日~6日は完全休養。まだ時差ボケが取れない。昼も夜もひたすら眠る。これからは眠いのに無理して頑張ることはやらなくてもよくなるのだろうか?

57日(月)、ハローワークへ。61日に来て、講習を受けることになった。自分のやりたい仕事には「編集」「翻訳(英⇔日)」と書くが、フルタイムではなく時間給のアルバイト。自分が望む時給を記入するようになっているが、昔はA4のペーパー1枚の英文レターを代理店に頼むと6,0008,000円もしたものだ。私のできる仕事は、時間でははかれないのではないか? A4の英文レターなら30分で書けるから、時給は12,00016,000円か? だいたい仕事を時給で考えること自体がおかしい。

8日(火)午後1時、京王プラザホテルで小林さんと打ち合わせを兼ねて昼食。10年前からずっと書きたい本があったという。小林さんだから絶対におもしろい原稿を書いていただけると思うが、その前に出版社に話を持ち込んで企画を通してもらわなければならない。むしろそっちの方が、はるかに大変だ。

その後、ホテル近くの東郷青児美術館で「ターナー展」を見る。今度の夏にスコットランド湖水地方をドライブする予定なので、オーディオガイドを聞きながら絵が描かれた場所と地図とをじっくり照合。ぜひ訪ねてみたい。そんなことで全部見終わるのに3時間以上かかってしまった。

午後6時、渋谷駅のハチ公前で頴川さん、岸さん、大亀さんと待ち合わせ。頴川さんが10年間かかって書き上げた辞書の原稿が完成し、お祝いの会を天空の月で。たったひとりで3000枚の原稿を執筆。凄い! これから出版社に売り込みをすると言う。ぜひとも実現してほしい。

10日(木)、昼に渋谷のイタリアン「クッチーナ」。書籍セクションの向坂、大場、日下、倉園君と打ち合わせを兼ねた昼食。「これからは仕事を受ける立場なので、どんなことでもやらせてもらう」と話す。大場君からは「企画はどうですか?」と聞かれ「まずは岸見先生と会って話をしてみる」と応える。クッチーナのコスルさんから「退職お疲れ様でした」と書いたデザートをいただく。コスルさんは私のブログを毎回読んでくれていたし、私の本の良き理解者だった(私の本は、わかる人にはおもしろく読んでもらえるけれど、わからない人にはまったくおもしろさがわかってもらえない)。本当にこれまでいろいろお世話になった。いつか何かの形でお礼をしなければ・・・。

11日(金)昼に新宿御苑近くのベスト・ワン・クルーズに田渕さんを訪ねる。私が経験したフォートローダール~バルセロナの大西洋横断クルーズは、日本人で乗った人が少ないので、話を聞かせてほしいと言われたため。船の上は完全に英語の世界で英語ができないと難しいこと、システムも思考もアメリカ式なので慣れていないと船内生活は大変なことなどを1時間ほど話す。田渕さんは一生懸命にメモを取っている。

スーツケースの車輪が欠けたことも、本当はこのベスト・ワン・クルーズで船会社に掛け合い、損害賠償金を請求してもらうのが筋かもしれないが、個人的にとても興味があるし、本に書くネタも見つかるかもしれないので、自分でやってみると話す。

これまで何度もブログに書いたが、この話を再現する。乗船して最初の夜、スーツケースの車輪が欠けていることに気づいた。桟橋でポーターに渡し、船の私の部屋に運ばれるまでの10時間の間に壊れたことは間違いない。まず写真を撮って証拠を残す。翌日、ゲスト・サービス・カウンターに行って事情を話すと、「この書類に記入してほしい」とペーパーを渡される。「どんな損傷があるのか」「いつどこで壊れたのか」「損害賠償額はいくらか」・・・等を英語で記入する。翌日また30分並んで書類を提出。2日後、マネージャーの「確かに確認した」というサインが入った書類を返却してもらう。「日本に帰ったらでいいので、それを添付してメールを送ってほしい」とのこと。

日本に帰ってから、ああだ、こうだ言っても通用するようなアメリカの会社ではない。日本人の旅行者の中には自分で何もやらないで、帰って来てから、旅行会社にあれこれ苦情を言うような人もいるのかもしれない。でも、その損傷が確かに船で起こったという証拠や、責任者が確かにそのクレイムを船上で確認したという文書を残しておかないと、旅行会社では何もできない。

このベスト・ワン・クルーズはネット上の「口コミ」では本当に評判が悪いのだが、そのほとんどが手取り足取り面倒を見てくれることに慣れている日本人旅行者の感覚と、海外の厳格な契約社会との「齟齬」(今年の流行語大賞は「忖度」と「齟齬」か?)から生じているものに違いない。その2つの常識の間で、日夜苦労しているのがベスト・ワン・クルーズなのだ。私が今回経験してわかったのは、口コミに書かかかれているような、そんな非常識でいい加減な会社では決してないということだ。

その日の夕方、NHK国際放送の韓国語アナウンサーの李さんと久しぶりに会ってお茶を飲む。韓国から戻ったばかりだと言う。恐らく韓国と北朝鮮の南北首脳会談の取材だろう。「金正恩がさかんに中国を訪問しているには理由があるんです」と言う。驚いたことに1953年の朝鮮戦争休戦協定には国連軍・中国・北朝鮮は署名したものの、韓国は署名していなかったのだそうだ。当時の韓国の首相・李承晩があくまでも戦うことを主張したとか、国連軍から軽く扱われたからだなどとも言われているが、大義名分としては「南北の分断を固定してはいけない」との考えがあったかららしい。

さんには、もう何年も前にイ・ヨンエさんのエッセイをつくる時に通訳として協力していただき大変お世話になった。彼の通訳の域を超えた交渉力でこの本は実現した。

12日(日)、大西洋クルーズで仲良くなった人はたくさんいたが、その中でもKaren & Bob夫妻とマデイラ島のツアーで親しくなったDallas、レストラン「ダヴィンチ」で一緒のテーブルになったTedSallyにも住所を教えてほしいとメールを送る。みんな、私の書いた「世にもおもしろい英語」と「アダムのリンゴ」の話をすると「英語版はないのか?」と聞く。「残念ながら日本語だけだ」と言うと、それでもいいので買うから送ってもらえないかと言うので、贈ることにしたのだ。

14日(月)、渋谷の牛舎でライターの田渕髙志さんとお茶。「ブログを直近のものから『どくとるマンボウ航海記』のところまで読んだけれど、とてもおもしろい」と言ってくれる。

17日(木)、渋谷公園通りのガストで荒川・硲・小池君と昼食。久しぶり。いろいろ会社のことで話が弾む。スマホを見て、「西城秀樹が亡くなった」と荒川君。ショック! 我々の青春そのものだった。

19日(土)午後2時、柏アミュゼで「東葛出版懇話会」。柏や松戸、我孫子、流山、野田などに住む出版関係者の会だ。仕事が忙しかったこともあり10年ぶりの参加。池内紀先生の講演「ステキな町の見つけ方」。講演後、先生に「重くなって申し訳ありませんが・・・」と言って「アダムのリンゴ」をお渡しする。3時から5時まで近くの中華料理店で二次会。みんな団塊の世代。「西城秀樹は素晴らしい歌手だった」と話し合う。「リハビリ姿を公にしたことも、多くの人を勇気づけたに違いない」と。

23日(木)、日本プレスセンタービルの日本記者クラブで「内外メディア研究会」。昨日、日大のアメフトの選手の会見が行われたところだ。日本経済新聞経済部長・藤井一明さんの講演「経済報道の新たな挑戦」。やはりAIとネットの時代になり、記者のあり方、新聞編集の方法が変わってきていると言う。例えば、まったく新聞や世の中の動向に興味がないようなオタクの力も借り、適材適所に人材を当てはめて、総合的に新聞やデジタル版を編集する時代になっていると言う。

40年振りに持丸さんという著者と出会う。持丸さんも講演を聞きにきていた。NHKの科学産業部というセクションにいて大活躍されたディレクター・プロデュ―サーだ。

3時に上野の西洋美術館。「プラド美術館展」を見る。ベラスケスやフリューゲルの絵を満喫。イングランドのチャールズ1世時代に宮廷画家だったヴァン・ダイクの作品もあった。これは『アダムのリンゴ』にも書いたのだが、Vandyke beard というヒゲがある。顎の下の短く尖ったヒゲのことで、王の肖像画を当時流行のこのヒゲをたくわえた姿で描いたことに由来する。

24日(木)、Karen & BobTedからメールの返信があった。2人とも本にサインをしてほしいと言う。Karenは「あなたがバルセロナで降りた後も、いろんな人たちと同じテーブルでディナーを食べたけれど、あなた以上に話がおもしろい人はいなかった」と書いてくれた。Tedは奥さんと彼女の従妹夫婦と一緒に船に乗っていたのだが、「先日みんなで会って、船で知り合った印象深い人たちについて話をした時に、あなたの話が真っ先に出て来た」と書いてきた。日本ではそんなふうに言われたことがないので、ちょっと驚いてしまった。

彼らへのメールには、日本国内のローカルな話なんだけど「西城秀樹という偉大なシンガーが亡くなった」と書き、「あのヤンキー・スタジアムでグラウンド・キーパーがYMCAに合わせて踊るけど、あれは日本で振り付けたYMCAのダンスなんだ」と説明。「歌詞も日本語版では、とてもsimpleでhealthy(健康的)になった」と書いた後、In other words, this sound is very sound.と続けた。soundには音楽の「サウンド」という意味と「健全な」という形容詞の意味がある。「言い代えれば、このサウンドはとても健全なんだ」と言う意味。英語って、おもしろいでしょ?

525日(金)、郵便局からKarenBobに本を送る。Dallasは返事は来たものの「ファミリーネームを教えて」と聞いたのに、それに関する応えはなかった。なぜか? 彼のアドレス名がSeto Motoとなっていて、「これはどういう意味? ひょっとしたら日本語? 日本語ではpotteryのことをSeto Monoと言うんだよ」と教えてあげたら、そっちに注意を奪われたらしく「昔見たアニメの登場人物の名前だけどタイトルは忘れた」と返事が来た。一番重要な自分の苗字についてはまったく触れていなかったので、来週送ることにする。彼はひょっとしたらアニメオタク?

定年退職は「お疲れ様」か「おめでとう!」か?

帰国してからも、怒涛のような日々が続いた。

425日(水)午前中は部会で退職の挨拶。午後はこれまでお世話になった方々へのメール文を作成。今晩は食事を9時までに済ませなければいけないので、6時半に退社。

26日(木)朝から人間ドック。50日の海外旅行、うち2週間のクルージングで、おいしいものを毎日たらふく食べていたので悪い数値が出るかと思ったが、主治医の新保クリニックで出してくれている薬を飲んでいるので、ずいぶん改善されていた。夕方からは、お世話になった方々にBCCでメールを送る。ところがBCCはすべて自分でアドレスを打ち込まなければならないため、間違いも多く、みんな戻って来てしまう。おまけに40人一斉に送ったところ、最初の10人くらいにしか送られてなかった、これはショックだった。これは迷惑メールの一斉配信を防ぐためだそう。そのため誰に送って誰に送っていないかが分からなくなってしまい、大パニックに。元NHKモスクワ支局長の小林さんからメール。「ぜひ手伝ってほしい仕事がある。退職するのを待っていた」と。電話してGW明けの午後1時に京王プラザホテルでお昼を食べながら打ち合わせをすることになった。まだ時差ボケが残っているため夜10時に会社を出る。会社人生で最後の残業。

27日(金)、午後から荷物の梱包を始めようと思ったが、再度、誰と誰に送っていて、誰に送っていないかを再整理して、BCC8人くらいずつ送る。5時半にはパソコンを総務部に返却しなければならないため、大急ぎでアドレスを打ち込む。どさくさに紛れて、韓国KBSの東京特派員の李さんに、私のメールが届いているかもどうか確認するため3分も話をしてしまった。ところが後になって気づいたのだが、今日は韓国にとって歴史的な日。ものすごく忙しかったに違いない。共通の友達の洪さんにメールして、お詫びしてもらう。そんなことで、荷物の梱包がまったくできなかった。明日会社に来てやることにする。

5時半。部のみんなが集まり花束をもらう。こんなお別れの挨拶をした。「日本では定年退職するというと『お疲れさまでした』と言われますが、旅で会ったアメリカ人はみなCongratulations!(おめでとう)と言ってくれました。日本人は過去を見、アメリカ人は将来を見ています。これからが私の人生の本番だと思っています」

花束をひとまずロッカーにしまい、同僚たちが開いてくれた送別会の会場へ。本当にみんなツーカーの間柄だし、気心が知れているからリラックスできる。昔話は楽しい。

28日(土)、お世話になった渓上さんご夫妻とお昼。その後、夜7時までかかって荷物を段ボール箱に突っ込む。

29日(日)、妻の運転で会社に。GPSに会社の電話番号を入力するが、首都高を代々木出口で降りるという表示が出て来ない。どうしても渋谷出口に行かせようとする。ひょっとしたら、代々木からは降りられないのか? GW2日目のためか首都高はガラガラ。GPSの指示に逆らって、新宿方面、中央高速を目指すとやっと代々木出口という表示がスクリーンに出て来た。

20分ほどで荷物を積み込む。代々木から首都高に入る。すいていたので、30分で柏まで来てしまった。

世界1周の旅だったことに気づく

(帰国してから、あっという間に1か月が過ぎてしまった。退職の後始末以外にもいろいろなことがあって、ブログを書けなかった。決してさぼっていたわけではない。クルーズでスーツケースを積み込む時に車輪が割れてしまい、損害賠償をしてもらっているが、そのことについてもLAの船会社と英文の手紙のやりとりが続いている。それについてもおいおい書いていくつもりだ。まずは422日、日本に帰国した日のことから書いてみたい。)

422日、朝起きるとホテルの外が騒がしい。大音響の音楽が鳴り響き、スペイン語のアナウンスがガンガン何ごとかがなりたてている。昨夜フロントで、念のために「明朝、向かいの駅に行けばタクシーがつかまるか」聞いたら、「明日はホテル周辺の道路は封鎖になる」と言う。私はその理由を聞かずに、少しホテルを離れれば、すぐにタクシーに乗れるだろうと安易に考えてしまった。

バルセロナ国際空港までホテルからタクシーで30分だと言う。出発は12時だったが、念のため3時間前の9時には空港に着けるように8時ちょっと前にホテルを出ることにした。日本では5分で終わることでも、海外では30分、1時間もかかってしまうことがある。だから何らかのハプニングがあっても余裕をもって対応できるようにしたのだ。

フロントに降りてドアの外を見ると、数多くのランナーがジョギングをしている。道路封鎖の理由はこれだったのだ。私はフロントで「マラソン大会だったんですね。朝から騒がしいので、てっきりアンダルシア独立のデモか集会か何かだと思っていましたよ」と言ったら、フロント係や私の後ろに並んでいた宿泊客も大声で笑った。フロント係の男性は「Not now」と言う。

ホテルを出てからが大変だった。どこまで歩いていっても、たくさんの選手がウォーミングアップをしていて、なかなかタクシーが走っているような道路にたどり着かない。30分後やっとのことで、タクシーをつかまえることができた。

運転手は陽気な青年だった。「アエロ・プエルト、アリタリア・ポルファボール」と言うと、Si, Siと言って猛スピードで走り出した。片言のスペイン語と英語でどうにかコミュニケーションができる。「スペインは何度目か?」「ドス」と言った調子。「アミーゴ、グラナダ」と言うと、「私の友人がグラナダにいる」ことがわかってもらえる。彼は「ママ、グラナダ」と言う。お母さんがグラナダ出身か、今グラナダにいるということだろう。

私は「少しスペイン語が話せる」と言い、「アブラ・ハポネス、セルベッサ・ポルファボール、ソモデナランハ・ポルファボール」と言うと「ビエン、ビエン」と喜んでくれる。「もうひとつ知ってる。ドンデエスタ・エル・セルビシオス(トイレどこ)?」と言うと大笑い。

メーターは38ユーロだったが、スーツケースも積んでくれたし、空港までの間楽しく過ごしたので50ユーロを渡しKeep the change.「お釣りはとっておいてください」と言うと、「ムーチャス・グラシアス」と微笑んだ。タクシーを降りて握手を交わす。I’m Carlos.と言う。ほんの30分くらいの会話だったが、永遠の友達になれそうな好青年だった。

飛行機に乗ると、右に3人、左に3人で真ん中に通路があった。ローマまで2時間。それならトイレも我慢できるだろうと思い窓側の席を取ったのだった。横の通路側の2座席にはスペイン語を話すカップルがいた。男性は腕がタトゥだらけ。たまに「ハポン」という単語が聞こえてくる。日本に興味があるのだろうか? 

飛行機が飛び立った。窓から下を覗くと意外と緑が多い。もう何年も前、マドリッドからモスクワに飛んだことがあったが、その時は街の周辺は砂漠のように真っ茶色で、マドリッドの街は何か広大な砂漠に浮かぶ島のように見えた。スペイン1と2番目の都市で、ずいぶん違うものだ。

ローマが近づいて来たようだ。下を見ると青い海と2つの島が見える。エーゲ海の島だろうか?

だが、その地形からすると、コルシカとサルデーニヤ島なのかもしれない。2つの島はこんなに近かったんだ。

ローマのレオナルド・ダヴィンチ空港でトランジット。まだお土産を買っていなかったので、免税品でチョコレート3箱とキーホルダーを購入。成田行きの飛行機に乗り込む。すると、何と同じ座席にバルセロナからの飛行機で同じ座席だったスペイン人のカップルがいるではないか! ただし今度は私が座席側の席。私がWe shared the same seat together on the plane from Barcelona.と言うと、彼もWhat a coincidence!と驚く。日本に行って10日滞在するのだと言う。彼は初めての日本、彼女は2回目だと言う。「日本でどこに行くのか?」と聞くと「東京だけ」だと言う。

「日本ではこれから長いholidayが始まる。観光地は混んでいるけど都心はガラガラだと思うよ」と言うと、「Golden Week?」と言う。よく知っている。「で、その休みはどのくらい続くの?」と聞くので「9日間」と教えてあげる。

11時間で成田に着いた。その時初めて気づいた。私はアメリカのワシントンDCから始まってフロリダに行き、大西洋をクルーズしてバルセロナ、そこからローマ経由で帰ってきた。そうか、世界を1周したんだ。

空港には妻が車で迎えに来てくれていた。50日振りの日本。成田からの風景は日本的で優しい景色だった。明日の火曜は休んで、明後日の水曜日には会社に行って挨拶、木曜は人間ドックだ。そしていよいよ金曜日には退職の辞令をもらう。さてその後には、私にはどんな人生が待っているのだろうか?

 

グエル公園は散策にはいいのだろうが・・・

4月21日、バルセロナ最後の日。明後日には飛行機に乗り、ローマ経由で50日ぶりに日本に帰る。

朝8時30分にグエル公園のチケットを予約してある。町はずれにあり、地下鉄のレセップスという駅から、歩いて15分だと言う。朝起きたのが遅かったので、レセップスの駅に着いた時には、もう8時半を過ぎてしまっていた。駅前にはタクシーが停まっていなかったので、走っているのをつかまえたが、反対方向だったので、ぐるっと遠回りする。そのため駅から15分もかかってしまった。何だ、歩く時間と同じじゃないか。

もう9時を過ぎていたが、入口でチケットをスキャンしてもらい、普通に入場することができた。音声ガイドはないのかと聞くと、iPhoneで聞けるようになっていると言う。

30分ほどいろいろ試行錯誤してみたがよくわからない。看板があり、そこにQRコードがあった。会社の同僚の硲くんが以前「QRコードを写真で撮ればアプリが入る」と言っていたのを思い出し、写真を撮ってみると、何と「Park Guell」というアプリが画面に入ったではないか。それをタップすると、言語を選ぶアイコンがあり日本語をタップ。公園の地図と音声ガイドの解説の番号も表示される。その場所に行って番号を押すと、日本語の解説が流れてくるようになっている。日本の美術館や博物館も、何年かのうちに自分のスマホで解説を聞くようになるのかもしれない。

このグエル公園は、のんびりと散策するにはいいのだが、ガウディの設計の力量や芸術性を知るには、ちょっと物足りない。やはりグエル亭を見学した方が、ガウディの凄さを実感できる。高い料金を払って船のツアーに参加しなくてよかった。

ただ、あの有名なトカゲの像やモザイクで覆われた波型のベンチなどは興味深いものだったが・・・。

 

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 公園を見終わってから、レセップスの駅まで歩く。アイスクリームを売っている店があったので、買って食べていると、そこに松山から来ているという3人の若者がいた。入口まで行ったものの、今日はもうチケットが買えなかったと言う。やはり事前にネットで予約することが必要のようだ。

地下鉄でランブラス通りへ。日本レストランに入り寿司を食べる。店の人はみんな日本人のように見えたが、誰も日本語が話せなかった。日本の音楽がインスツルメントで流れる。橋幸夫の「雨の中の二人」。「雨が小粒の真珠なら・・・」と思わず口ずさんでしまった。

ガウディが設計した高級アパート「カサ・ミラ」を見てホテルに戻る。

さあ、いよいよ明日は日本に帰る。3月8日に成田を発った時はまだ寒かった。桜の時期も過ぎ、もうすっかり春本番になっていることだろう。

 

ピカソの絵を見てユーミンの才能を想う

朝8時半過ぎにホテルを出てピカソ美術館に。フロントでは「歩いて10分」と言っていたが、教えてもらったようにホテルを出て左に行き、3つ目の路地を右に曲がってまっすぐ行くと5分ほどで着く。こんなに近かったんだ。実はもっと先にあると思い、歩いてくる人に聞いたら「ここだ」と言って目の前の建物を指す。その人は美術館のスタッフだった。大きな看板もないので、よくわからなかったが、小さく「チケット」と書いた標識があった。

一番前に並んで20分ほど待つと扉が開く。チケット購入画面がプリントできなかったのでiPhoneで写真を撮ったのだが、それを見せると入場することができた。パックパックを預けるコインロッカーがあったが、私は昨日スリに小銭入れを盗まれていたので、コインを持っていない。盗まれなかったカードでお金を降ろして(降ろせるのは札だけ)水でも買って、コインを入手しなければダメかなと思ったが、「コインは持っていない」と言うと「両替もできる」と言う。「カードきり持っていない」と言うと、「こちらでもいい」と言ってクロークで預かってくれ、番号札を渡される。

さすがピカソ美術館、日本語の音声ガイドもある(私は音声ガイド付きのチケットを購入していた)。

ピカソが14歳の時に描き美術展で入選した「初聖体拝領」という絵があった。その時代には、宗教をテーマにした大きな絵が選ばれる傾向にあったため、絵の先生と父親に勧められてこの絵を描いて出品したと言う。次の部屋にあるはすの「科学と慈愛」は「修復あるいは貸出」のため(どちらなのだろう?)、代わりに色の薄い写真が展示してあった。

ピカソは青年時代には、これまでの伝統的な絵画の手法を身に付けるとともに、自分自身の発想と感性で自由に絵を描いた。プロともなると、その絵を見ただけでどのようなタッチでどのような手法で描いたものか、そのプロセスまで瞬間的にわかると言う。以前、荒井由実の「ルージュの伝言」という自伝を読んだのだが、彼女は何色と何色をそれぞれ何%の割合で混ぜると、どのような色になるかを完全に把握していた。美術大学の受験の時も、芸大で評価される絵と多摩美向けの絵ではまったく傾向が違うので、それぞれ違う先生に習っていたと言う。何という深い世界なのだろうか? そんな絵を描く時に身に付けた感性や知識が、彼女の音楽の創作にも強く生きているのではないか、とかなり前から思っている。

私は知らなかったのだが、ピカソは一時静物を描くことに熱中していたこともあったと言う。テーブルの左側に花瓶に差した花を配置し、食器や果物なども置かれていた。音声ガイドによれば、構図はセザンヌマチス、絵の具の厚塗りはゴッホ、輪郭の描き方がはゴーキャンの手法を意識したのではないか?とのことだった。

スペインの画家ベラスケスには「ラス・メニーナス」(女官たち)という作品があるが、ピカソの同じ題の絵もあった。その部分部分のスケッチも。キュビズムの手法を使い、ピカソ独独自の解釈で描いたベラスケスの絵のパロディだった。元の絵には宮廷画家だったベラスケス自身も左奥に控えめに描かれているのだが、ピカソの絵では一番目立つように巨大に描かれていた。

私はもう30年も前、マドリッドで「ゲルニカ」を見たことがある。この絵は、以前はNYのMoMa(近代美術館)の2階への階段を上がったところに展示されていたが、ピカソが「スペインの右翼独裁政権が終わり民主主義が復活したら故国に戻してほしい」との遺言を残したために、スペインに返還されたばかりだった(フランコが亡くなって5~6年が経っていたと思う)。プラド美術館の別館に数多くのスケッチともに展示されていた(いまはマドリッドの他の美術館にあると聞いた)。

青の時代やキュビズムの作品など、ピカソの絵画はNYのMoMaにもたくさん展示されている。世界のいろいろな美術館に分散されているのにもかかわらず、本家本元のピカソ美術館にこれだけの作品が展示されているのは、数多くの作品を描きそのどれもが最高傑作だからなのだろう。

ピカソ美術館を出て両替所を探す。やはり少しはユーロの現金を少しは持っていないとまずい。盗まれなかった現金120米ドルをユーロに変えることにする。立派なドイツ銀行のビルに入って聞くと、近くの教会の周りには両替所がたくさんあると言う。別の銀行らしき建物に入り聞くと、そこでユーロに交換できると言う。待っている人が2人いたのでその後に並んだのだが、1人につき10分以上時間かかかっている。結局ドル紙幣をユーロにに変えるのに30分以上かかってしまった。 

外に出ると、まわりにはいくつも両替所があった。立派な建物でなく、街角のちょっとした窓口だったが、そこならほんの3分ほどで換金できたのだ。

少し歩くと、街で一番賑やかなランブラス通りに出た。地図を見るとすぐ近くに「グエル亭」があったのでチケットを買って入る。あまり期待していなかったのだが、なかなか充実した博物館だった。オーディオガイドを聞きながら邸内を巡ると、サグラダファミリアよりもグエル公園よりもガウディの偉大さがよくわかった。

グエルは1878年のパリ万博で、ある展示物を大いに気に入り、その設計者を探すと同じスペイン人のガウディという男だということがわかった。最初は、家の中の家具など小さなものを設計してもらっていたのだが、最終的に彼の邸宅全体を設計してもらうことになった。床も天井も柱もドアも、ガラスの窓枠もステンドグラスにも、当時の最新技術と芸術的手法が駆使されていた。あまりにも興味深かったので、何と3時間も滞在してしまった。

再びランブラス通りを歩いて港の方に行くと海洋博物館があった。昨年発行した「アダムのリンゴ」という本では、大航海時代に生まれた英語もたくさん紹介したので、見学してみたかったのだが、1日に3つの博物館をはしごすること自体ちょっと無理があるような気がして諦める。もう歳だし、私のように集中して展示物を見るようなタイプだと、疲れ切ってしまい、体調を崩すこともありうるのではないかと思ったのだ。次に来た時にゆっくり見ることにしよう。

港の近くのバーで遅めのお昼を食べる。イカリングのサンドイッチ、サラダ付きはとてもおいしかった。そこからモンジュイックの丘を少し上がると、ロープウエイの駅があった。3日前に買った4日間有効のチケットが使えると思い、20分ほど並んでいると、乗る直前になって係員がチケットをチェックして「このチケットでは乗れない」と言う。仕方なしに、もう一度窓口に行ってチケットを買い行列に並び直す。さらに待つこと20分、やっと乗ることができた。

地上から数十メートルの空中散歩・・・と言えば、聞こえはいいが、高所恐怖症の私には地獄のようだった。ロープは私のホテルの近くの桟橋まで続いていた。塔の上の駅に着くと、エレベーターがあったのでそれに飛び乗り、ほうほうの体で下りて来た。

私は昭和34年に東京タワーに昇ったことがある。完成した直後のことだ。その時、確か上の展望台から階段で歩いて降りたような微かな記憶がある。その時は、まだ高所恐怖症ではなかったのかもしれない。

ホテルに戻り、洗濯機と乾燥機があるか聞くと、ホテル内にはなくて、歩いて5分ほどのところにコインランドリーがあると言う。また札を崩してコインを大量に持っていないといけないのか、スペイン語のインストラクションを解読しなければいけないのか・・・などと少しうんざりしていたのだが、行ってみると、若い女の人がいて、洗濯物を持ってきてもらえれば、8.5ユーロで洗濯から乾燥までに全てやってくれると言う。一安心。

さっそくホテルに戻り、洗濯物を持っていくと1時間半後に取りに来てほしいとのこと。ホテルに帰り本を読み、そこにいくともう全て終わり、洗濯物をカゴに入れてくれていた。チップも含め10ユーロ払う。

 

 

 

 

 

 

地下鉄でスリに遭う

419日、一昨日はモンセラット、昨日はフィゲラスと遠出が続いたので、今朝はゆっくり起きる。お昼にホテルの人が教えてくれたレストランに行き、パエリアを食べる。だが、かなり塩辛く、口の中が痛くなってしまうほど。私は高血圧なので、日本では極力塩分を控えている。生卵でも目玉焼きでも醤油は1滴垂らすだけ。体重も落としているので、ご飯も茶碗に半分きり食べないようにしている。だが、ヨーロッパではそんなことは言っていられない。ものすごく塩辛いものを食べて、甘いデザートで中和させることしかできない。日本に帰って、すぐに人間ドックに行くのだが、私の健康状態は今どうなっているのだろうか? 結局そのレストランではパエリアを4分の1ほど残してしまいホテルに帰る。

さて、明日から何をしようか? 『地球の歩き方』を開いて、ピカソ美術館と、船のツアーでは行けなかったグエル公園に行くことにする。どちらも予約して行かないと、入るまでかなり時間がかかりそうだ。だが、どちらもクレジット決済の最後にはカードのパスワードを入力するようになっている。全く覚えていない。今までクレジットカード決済でいろんなものを買ったし、飛行機やホテルの予約もした。でも、これまでパスワードを入れたことがない。あてずっぽうでのいろいろやってみるが全部ダメ。パスワードを再登録しなければならない。だが、それが本当に面倒で、いろいろ試行錯誤しながら完了するまで1時間もかかってしまった。カード会社ももっと簡単にパスワードの再登録できるようにしてほしい。きっとものすごい数の苦情が殺到していることだろう。

ピカソ美術館は、明日の午前9時の一番早い時間を予約。最後の段階で「画面をプリントするように」という指示があったが、ホテルにいるためにできない。そこで画面の写真をiPhoneで撮っておくことにした。その後、その最終画面はどこかに消えてしまって見ることができず、「予約確認」のメールも送られて来ない。なぜだろうか? でも写真を見せれば、予約番号もわかるし、どうにかなるだろう。グエル公園はパソコンではなくiPhoneでやってみた。明後日の朝8時半。こちらはきちんと「予約OK」のメールが来た。

これでバルセロナを代表する名所は見ることができる。気分がよくなったので、街一番の繁華街にある「グラシア通り」にでも行ってみようと思い、ホテルを出る。日本食も最後にフロリダで食べたきりで3週間以上食べてないので、ちょっと寿司かうどんでも食べよう。4日間有効の地下鉄チケットもほとんど使っていないし、もったいない。駅に向かって歩き始めたが、シャツにカーディガンでは少し寒かった。夜9時になって日が暮れれば、もっと寒くなるだろう。ジャンパーを取りに部屋に戻り、また地下鉄の駅まで歩いた。

電車が来たので慌てて乗り込むと、最後の車両だったので物凄い混みようだった。にもかかわらず人を押しのけて1人の小柄な女性が近づいてきた。きっと次の駅で降りるのだろう。彼女は私を見てニコッとした。電車が次の駅に着く直前、彼女は頭を小刻みに降り始めた。それがあまりにも激しかったので、何かの発作かと思って心配になった。彼女はその駅で降り、電車が次の駅に向かっている時、ズボンの左のポケットをまさぐると、そこに入れたはずの小銭入れがない。その中には現金がお札で110ユーロとコインが5ユーロほど、クレジットカード、ホテルのカードキー、そして私の自宅の玄関の鍵が入っていた。やられた。スリにあってしまった。

ひょっとしたら先ほどホテルにジャンパーを取りに戻った時に、部屋に置き忘れてきたのかもしれないと思い、反対方向に行く電車に乗り代えホテルに急ぐ。フロントでI left my card-key in the room, or it was stolen with my money and credit card.と言って、新しいカードキーをつくってもらい、部屋に入って隅から隅まで探したが、小銭入れはなかった。

幸い右ポケットに入っていたiPhoneは無事だったので、すぐに日本のカード会社の電話番号を調べ、カードをストップしてもらう。同時にカードの保険窓口の電話番号を教えてもらう。「保険窓口は明日の日本時間の朝9時からです」と言う。フロントに行って「やはり盗まれていました。警察に行って盗難証明書をつくってもらわなければいけないので、場所を教えてください」と頼む。フロントの人もいつものことのように市外地図を出して、このホテルと警察署に印をつけ丁寧に行き方を教えてくれた。

カードはストップしたし、ホテルのカードキーも私の家の玄関の鍵も問題はない。現金の115ユーロだけが損害額ということになる。パソコンやパスポート、他のクレジットカードや銀行のカードは部屋のセイフティ・ボックスに入れてある。必要最低限を持って出かけたのが良かった。でも115ユーロだけでも保険で下りないだろうか? 

不幸中の幸いと思うことにし、別のクレジットカードを持って、ホテルの1階にあるレストランに行ってバーべキューを食べた。これがなかなかおいしかった。「燈台下暗し」とはこのことだ(これは海の灯台と思っている人が多いが、昔使っていた燭台の下が暗いという意味)。

朝起きて、カード保険の窓口に電話すると「クレジットカードの保険では現金の盗難はカバーすることができません」と言う。「財布自体の金額は補償できますが、使用期間を勘案しますので、かなり安くなくなってしまいます。また補償の際に3000円をいただくことになります」。私の小銭入れは東急ハンズ1500円でちょっと高いなあと思いながら買ったものだ。きっと0円に限りなく近いのだろう。しかも3000円を支払わなければならない。完全にマイナスだ。まあ15000円でいい勉強をさせてもらったと思うことにしよう。

もう何年も前のことだが、マドリッドで地下鉄に乗っていたら、若い男から「セーターに何か付いているから脱いた方がいい」と言われたことがある。「ああこれか、来たな」と思い、ポシェットを見ると、ちょうどその隣にいた男がジッパーに手をやり半分開けたところだったので、慌ててジッパーを閉め直したことがあった。その間、次の駅に着くまでの23分間、じっと目を合わせたまま。何と気まずかったことか(気まずかったのは、私ではなく彼らだったのだが・・・)。扉が開くと、彼らは一目散にホームを逃げていった。

そんな体験を何度もしているし、今まで外国で盗難に遭ったことがなかったので、ちょっと自信過剰になっていた。それにしても、お見事というしかない。ズボンの左のポケットはカーディガンの裾の下に完全に隠れていたはずだ。めくれば絶対にわかるはずだが、全く気づかなかった。電車が駅に着く前に頭を激しく振ったのは、そちらに気を引かせることで、財布を確認させないようにしたのかもしれない。15000円で良い勉強になったと諦めることにする。警察に行って何時間も盗難届の書類をつくる必要もなくなったし、あと2日きりないのだから、観光を楽しむことにしよう。

私の娘は2か月かけてヨーロッパを旅行していた時、2回連続で現金とクレジットカード、銀行のキャッシュカードを盗まれた。次のクレジッカードができるまでお金は降ろせない。幸いスペインのグラナダに私の友人がいたので、娘と一緒に旅をしていた友達を泊まらせてもらうように頼んだ。娘は友達からお金を借りて列車に乗り、どうにかグラナダまでたどり着いたのだった。3日間泊まらせてもらっている間に、私はその友人の口座にお金を振り込んで、娘に渡してもらうように頼んだ。

娘はそんな体験を息子たちにも話したのだろう。フロリダの娘の家で孫たちに「おじいちゃんはお船に乗って海を渡ってスペインに行くんだよ」と言ったら、上の5歳の孫が即座に言った。「スペインには泥棒がいるよ」

ダリ美術館で突然日本語が・・・

昨日船を降りホテルにチェックインすると、無料WiFiが使えるようになった。日本で何が起こっているか、ゆっくりネット検索。メールも時間を気にせずに送れるということは何と幸せなことか。でも、それだけ普段の生活がITに毒されているということなのだが・・・。

さて418日、今日は列車でフィゲラスという町に行く。サルバドール・ダリが自ら設計したと言う「ダリ美術館」を訪ねるためだ。朝9時にホテルを出て、地下鉄のバルセロネータという駅の自動販売機で4日間(というか96時間)有効のチケットを買う。途中まで順調だったのだが、クレジットカードを入れたところで機械が止まってしまった。係員の人が近くにいたのでやり方を教えてもらう。驚いたのは、最後の画面に「ユーロで払うか?」「日本円で払うか?」という選択肢が出てきたことだ。クレジットカードで日本人だとわかるのだろう。どちらが得かよくわからないが、換算手数料がいらないような気がして「日本円」の方をタッチ。

地下鉄を途中で乗り代えて、列車が発車するサンツ駅に着く。自動販売機でチケットを買おうとかと思ったのだが、この駅からはいろんな方面行の列車が出ているし、表示を見てもよくわからない。仕方なしに、窓口で買うことにする。インフォメーションで聞くと、1番の窓口でチケットが買えると言う。

1番に行くと、5メートルくらいの行列ができていたが、10分ほどで買うことができた。16ユーロ。列車が出るのは13番線だと言う。まだ食事をしていなかったので、何かパンでも買って行こうかと思ったのだが、どこのレストランやバーのカウンターにも列ができていたし、発車時間まであと10分だったので諦めて列車に乗る。日本だったら、キオスクやコンビニでお握りやパンやお茶がすぐに買えるが、スペインではそうはいかない。

列車に乗り、そこの車両に座っていたカップルに「この列車はフィゲラスに行くか」と英語で聞くと、英語で「行きますよ」という答えが返ってきた。ドイツ人だと言う。どこかに指定席があるのかどうかわからないが、私のチケットは自由席券。とにかく彼らの横の席に座る。「ダリ美術館に行くんですか?」と聞かれYes.と応える。

すごくすいている。こんなことでスペインの国鉄は大丈夫なのだろうか? だが途中の駅で乗る人も少しずつ増えてきた。大きな荷物を持ったカップルも乗って来た。私は4人向かい合って座る席に1人で座っていたのだが、そこを彼らに譲り(ひとつの車両で半分の席は前向き、残りの半分は後ろ向き座るようになっていて、真ん中の4席だけが向かい合っている)、ひとつ後ろの席に移ると、フランス語でお礼を言われた。

1時間半くらい走ると、ジローナという駅に着く。かなり大きな街だ。ドイツ人もフランス人のカップルも、この駅で降りた。『地球の歩き方』にあった簡単なカタルーニャの地図を見ると、郊外に空港があるようだ。私たちの感覚だと、ヨーロッパの他の国からスペインに飛行機で行く場合には、マドリッドバルセロナの空港まで行くと思いがちだが、そうではなく、このジローナ空港は、直接ヨーロッパの各国の地方都市とを結ぶ飛行機を発着させているに違いない。

2時間10分ほどで、フィゲラスに着く。駅前のカフェでケバブとサラダとパンを食べ、コーヒーを飲む。お店の女性はイスラム教徒なのだろう。頭に布をかぶっている。

美術館に行くと、10メートルのほどの行列ができていた、聞くとチケットを購入する人たちの列だと言う。15分ほどで130分に入場のチケットを買うことができた。すでにその時125分だったので、そのまま入口に行けばよかったのだが、近くのカフェでミネラルウォーターを買っている間に、20メートルほどの列ができていた。1分に1組ぐらいの間隔で少しずつ入場させている。また10分ほど待つと、やっと中に入れた。バックパックをクロークに預ける。見終わってから、チップを上げなくてはいけないかなと思い小銭入れを見ると2ユーロのコインがあったので、安心する。番号の1番から順に見始めようとした時、小学生くらいの女の子がスペイン語で「これを落としましたよ」と言って50セントコインを差し出す。小銭入れにコインがあるか確認した時に、落としてしまったようだ。「ムーチャス・グラシアス」とお礼を言う。

奇想天外な絵ばかりある。一体ダリの頭の中はどうなっていたのか? きっと世間の常識にとらわれたり、周囲からの圧力に屈していたら、こんな絵は描けなかっただろう。きっと、いつも自由でいた人なのだろう。いや精神を常に自由な状態に保つため最大限の努力をした人なのかもしれない。

Memory of Persistence」(記憶の固執)はどこにあるのですか」と、係員に英語で聞く人がいた。あの時計がグニャッと曲がっている絵だ。「MoMaNYの「近代美術館」)にあります」と係員は応えていた。私は去年、上野で開かれていた「ダリ展」を見に行ったが、その時にあったような気もするが・・・。でも、あれは時計がグニャッとなっている他の作品だったか? MoMaにはNYに行くたびに必ず入るので、そこで見たのかもしれない。どっちにせよ、本物は何度か見たことは間違いないだろう。

「女優メイ・ウエストの部屋」という不思議な作品が展示されている部屋があった。階段の上に昇ると、ダリの仕掛けたトリックがわかるようになっている。階段の前に10メートルほどの列ができていた。そこ並んだ時、後ろのスペイン語を喋っていた男の子が突然日本語を喋り始めた・・・ように思えた。すごく自然な日本で、外国人が喋っている感じではない。あれ!と思い、その男の子に「アブラ・ハポネス?」と聞くと「はい、話せます」と言う。隣にいたお母さんが日本人ぽかったので、「ああ、びっくりしました。こんなところで突然、日本語が聞こえていたんですから」と言い「日本からいらしたのですか?」と聞くと「メキシコに住んでいて、こちらに来ました。私はメキシコで育ちましたが、父は新潟、母は東京の出身なんです」と言い、「家ではできるだけ日本語を話すようにしているんです」と付け加えた。隣にはさっき落としたコインを拾ってくれた女の子がいる。彼女が娘さんなんだ。ご主人はメキシコ人なのだろう。

私は「38日に日本を出て、フロリダから14日間船に乗り大西洋を横断して、一昨日バルセロナに着いた」ことを話すと、「すごい旅ですね」と言う。「私にもフロリダに孫が2人いて、日本語と英語を話すんです」と言うと「それは素晴らしいですね」と言う。あまり邪魔をしてもいけないので、「それでは良い旅を続けてください」と言って別れた。

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その後、ダリ美術館から歩いて20分の郊外にあるサン・フェラン要塞へ。私の足では30分。周囲5キロの、ヨーロッパで最大の要塞だと言う。対ナポレオン戦争では激しい攻防が繰り広げられ、スペイン内戦の時には、共和国政府の臨時首都がここに置かれたが、フランコ軍の猛攻にさらされ落城。広大な要塞の中で見学者は私ひとりだけだったと思ったが、遠くに男女2人組が見えたので少し安心する。。1時間半かけて全体を見て廻る。最盛期には兵士1万人と騎馬兵500が駐屯し、ひとつの町のようだったのだろう。さぞかし賑わっていたことだろう。でも今は厚い壁も朽ち果て天井も落ちシーンと静まり返っている。まさに「強者どもが夢の跡」のスペイン版だ。

6時の列車でバルセロナに戻る。今度は5両編成の普通の電車で、恐らくはトイレはないだろう。行きと違って各駅だった。2時間10分ほど走って電車は停まり、みんなが降り始めた。最後の駅らしいが、それは「サンツ駅」(Sants Estacio)のはずだ。でも車内の電光掲示板は「BARNA SANTS」となっている。よく考えたら「BARNA」はバルセロナの略だった。各駅だったのに、行きと同じ2時間10分。不思議だ。