旅三昧&ときどき読書+映画

私は小泉牧夫。英語表現研究家という肩書で『世にもおもしろい英語』『アダムのリンゴ 歴史から生まれた世にもおもしろい英語』(IBCパブリッシング刊)という本を書いています。2018年4月に 出版社を退職し、41年にわたる編集者生活を終えました。いま世界中を旅しながら、本や雑誌記事の執筆とともに、旅先ではこのブログを書いています。お金はありませんが、時間だけはたっぷりある贅沢な旅と執筆と読書と映画の日々を綴っていきたいと思います。

旅三昧&ときどき読書+映画

私は小泉牧夫。英語表現研究家という肩書で『世にもおもしろい英語』『アダムのリンゴ 歴史から生まれた世にもおもしろい英語」(IBCパブリッシング刊)という本を書いています。2018年4月に出版社を退職し、41年にわたる編集者生活を終えます。それからは世界中を旅しながら、本や雑誌記事の執筆をする予定。お金はありませんが、時間だけはたっぷりある贅沢な旅と執筆と読書と映画の日々を綴っていきたいと思います。

憧れのモンセラットでパニックに

417日、船には乗船客が何千人も乗っていて、みな一人ひとりスケジュールが違う。私のように今日バルセロナで降りる人もいれば、そのままローマやギリシャまで行く人もいる。一昨日の夜、各部屋に書類が配られ、船をどのような形で降りるのかを記入した。前夜のうちにスーツケースを部屋の外に出しておいてポーターにターミナルまで運んでもらい、下船してからターミナルで受け取る人が一番多いようだ。その人たちの多くは、そのまま空港に行って飛行機に乗る。

私はスーツケースを自分で運んで降ろす「Self Service Disembarkation」という方法を選んだ。スーツケースをバスの荷物室に入れて、そのままモンセラートへのツアーに行くからだ。

今朝は、同時にスペインへの入国(通関手続き)もしなければいけない。ツアー参加者はクラウンプリンセス劇場の入口の前で、行き先ごとに番号と色のついたバッジを胸に貼る。私は今日は「オレンジ12」。モンセラットに行く人はオレンジ、11~13まで3つの組に分かれていた。車輪の壊れたスーツケースを引きづり、階段では持ち上げて運びターミナルへ向かう。今まではルームカードさえ持っていれば降りられたが、今日はパスポートが必要だ。ターミナルの広大な部屋にはたくさんのスーツケースが並んでいた。私のように自分で持って船を降りる人は緑。番号もその人が下船後どう行動するかによって違ってくる。その色と番号ごとに整然と分けられている。

同じツアーの人たちと列をつくり歩いて行くと、前方に簡単な机があった。制服を着た入国審査官らしき人が立っている。列の前の方の人たちは、みんなそこを通り過ぎて行くが、私はスーツケースを持っていたので、その係官に「船をチェックアウトするんですね?」と聞かれた。「はい、そしてスペインに入ります」と言うと、彼は「スペインへようこそ」とスペイン語で言った後、私のパスポートを開いてつくづく眺め、「日本のパスポートは初めて見ましたよ」と言いながらポンとスタンプを捺してくれた。

アーバスの運転手に「今日ここに戻ってきたら、荷物を降ろしてタクシーでホテルに行きます」と言い、「荷物をピックアップするのを忘れないようにしなければなりませんね」と付け加える。運転手も「くれぐれも忘れないようにしてくださいよ」と言いながら、重いスーツケースを荷物室に入れてくれた。

バスは市街地を抜けて、郊外に出た。しばらくすると山地に入り、右側にモンセラットの異様な山並みが見えてきた。何と譬えればいいのか? 頂上が丸くなった縦に細長い岩がいくつも並んでいる。ガウディがサグラダファミリアなどの設計をする時にインスピレーションを得たと言われている山だ。彼の建築は、四角いコンクリートを組み合わせたような無機質なものではなく、丸い素材を合わせた、あたかも自然の中にいるような温かみを感じさせるものが多いが、その発想の基にはこの山があったと言われている。

バスは1時間半ほど走って駐車場に着いた。目の前に丸い岩山に抱かれるように修道院があった。『地球の歩き方に』には、「モンセラットに行くには、ふもとの駅まで列車で来て、その先はロープウェイか登山列車に乗る」と書いてある(それ以外の交通手段は、私のようバスで来るか車で来るかだ)。駐車場の先の展望台からは、その両方の駅が見える。

 

 

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モンセラットと修道院

修道院の教会には12世紀のものとされている木彫りの「黒いマリア像」が祀られている。教会の先の岩山に、急な斜面を昇って行くもうひとつのケーブルカーも見えた。垂直に上に上がっている。まるでエレベーターだ。ツアーガイドの後について修道院や教会に関する説明を聞いた後、自由時間になった。ガイドは「午後2時にバスに集合してください」と言う。

私は、以前TVBSの「ヨーロッパ空中散歩」という番組でこの山を見て、ぜひ行ってみたいと思い始めたのだが、その時には山のてっぺんに何人かの人がいた。そこには、きっとこのエレベーターのように垂直に昇るケーブルカーで行くのだろう。時計を見ると12時。まだ2時間ある。ガイドに聞くと、「ケーブルカーで片道7分くらい」だと言う。「チケット窓口でかなり並ぶようでしょうか?」と聞くと、「その時々で違うのでわからない」と言う。

垂直ケーブルカーの駅に行くと、私の前に4人が並んでいた。どういう訳か一番先頭の人が窓口でチケットを1枚買うのに時間がかかっている。中には3人の係員がいるが、何もしていない。販売機の故障だろうか? 私の後ろにもどんどん長い列ができていく。10分ほど待って、やっとその人はチケットを手にすることができた。その後は私も含め、みんなすぐにチケットを買うことができた。

1230分のケーブルカーに乗ることができた。青梅の御岳山のケーブルカーで慣れ親しんでいる私も、これほどの急勾配は初めてだ。何年か前に比叡山延暦寺に行った時、帰りは琵琶湖側の坂本というところまでケーブルカーで降りたが、そこが日本で一番傾斜がきついと言っていた。だが全く比べ物にならない。

ちょうど真ん中で上から降りてくるケーブルカーとすれ違い、何分かで頂上駅に着く。駅を出ると、「サント・ジョン教会跡まで15分」という標識があったので、そこまで歩くことにした。私は3年前にふくらはぎの部分断裂をしているので歩くのも遅い。道は広かったが、本格的な登山のよう。道の片側は崖になっている。落ちたら確実に命を落とすだろう。20分ほど歩いたが、まだ教会跡には着きそうもない。道はどんどん狭くなってくる。人ひとりが通れるように崖を削ってつくった狭い道もあった。ちょっとでもバランスを崩すと真っ逆さまだ。前方には垂直に昇る狭い階段も見える。そこに行くまでには、もっと危険を伴う狭い道を通らなくてはならなかった。若い頃なら何の不安も感じずに行っただろう。とにかくあともう少しなのだ。だがもう歳だし、自分のバランス感覚にも自信がない。バスに間に合わなかったら大変だし、いろんな人に迷惑をかけると自分を納得させ引き返すことにした。

駅に戻り、時計を見ると130分。これなら大丈夫だ、問題もなく1時45分か50分にはバスに戻れるだろう。下りケーブルカーに乗ると、すぐに扉がしまった。ところが扉が閉まってから、2分たっても3分たっても動き出さない。何かあったのだろうか? このままケールブルカーが故障して、降りられなくなったら大変なことになる。どうやって桟橋まで帰るのか? その時、私のスーツケースはどうなるのか? 船の方でも私がバルセロナで泊まるホテルは把握していない。

扉が閉まって5分も過ぎただろうか? やっとケーブルカーは下り始めた。ホッとした。これで荷物と一緒に桟橋まで帰れる。そしてタクシーでホテルに行ける。

帰りのバスでは、ミネソタから来たという夫婦と親しくなり、いろいろ話をした。私が朝スーツケースを持って船を降りたので、「このツアーが終わったら、そのまま空港に行くのか?」と聞いてきたのだ。「いいえ、市内のホテルに泊まって5日間滞在します」と応える。先ほどケーブルカーで上まで行き、教会跡にたどり着く途中で引き返してきたこと、下りケーブルカーが山頂駅で5分止まったまま動かずに、パニックになったことを話した。

奥さんが言った。「もしケーブルカーが動かなくなったら、下まで歩いて降りてくるのは大変ですよね」。私は「その後も大変ですよ。このツアーのガイドや皆さんにも迷惑がかかるし、ロープウェイや登山電車で帰って夜遅くに桟橋に着いてもう船は出てしまっているし、スーツケースと私は離れ離れになってしまう訳ですから」。以前、日本人のフリーのツアーガイドに聞いたことがあるが、空港にお客様を迎えに行って、もし会えなかったら、もうクビになってしまうのだと言う。

バスは無事に桟橋に着いた。バスを降りる時に、そのご夫妻に「良いクルーズを続けてください」と言うと、「ありがとう。あなたもバルセロナで楽しく過ごしてくださいね」と言ってくれ、握手をして別れた。

バスの運転手がスーツケースを荷物入れから降ろしてくれたので、チップの5ユーロ札を渡す。何と750円だ。私はこれまで1ユーロのコイン2枚か2ユーロ・コイン1枚をチップとして渡していたのだが、ツアーガイドの手の平を見るといつも札が握られていた。米ドルなら1ドル紙幣があるが、どうもユーロでは5ユーロが札としては一番安いようだ(違っていたらごめんなさい)。私はいつも(レストランのウエィター・ウエィトレスやタクシーの運転手のように料金の15%程度を払う場合を除き)、200円相当を基準にしてチップを渡していた。アメリカでは1ドル札が2枚ない時は、クオーター(25セント硬貨)を8枚渡したこともある。札がないのだから仕方ない。でも、アメリカに住む娘には「コインでは余った小銭を渡しているようで失礼だ」と言われたことがある。

以前、私の本の著者・イギリス人のブライアンさんにチップについていろいろ尋ねたことがあるが、彼でさえも「チップというものには正解がないので、なかなか難しい」と言っていた。ブライアンさんは、その後「To Tip Or Not To Tip, That Is the Question」(チップを払うか払わないか、それが問題だ)というタイトルで英語の原稿を書いてきた。もちろんシェークスピアTo Be Or Not To BeThat Is the Question生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ)のもじりだ。

桟橋からタクシーに乗って、港の近くのフランサ駅の前のホテルに着いた。11ユーロ50セントだった。20ユーロ渡して、8ユーロ50セントのお釣りをもらった。スーツケースも積んでもらったので、少し多めのチップを払った方が良かったのだが、私はそのお釣りの中から2ユーロと1ユーロのコイン、計3ユーロを渡した。運転手は「ムーチャス・グラシアス」と言って受け取った。料金の25%だからチップとしてはちょっと高いのだが、コイン2枚だった。

カレンから渡された『どくとるマンボウ航海記』

416日、今朝、船内新聞Crown Patterに挟まれていたバルセロナの地図を見ると、市の中心地から少し離れた遠くの桟橋に船は着いたようだ。昨晩ホテルのホームページの地図を見ると港の近くだったので、これならホテルまでスーツケースを転がして歩いて行けると思ったのだが、船を降りてからタクシー乗り場まで1キロ近く桟橋を歩かなければならないだろう。ホテルまではさらに2キロくらいありそうだ。スーツケースの車輪は壊れているし、大丈夫だろうか? まあ、明日のことは明日考えよう。

朝食を済ませて、午前9時に集合場所のWheelhouseというレストランに行く。そこで「2」と印刷されている赤いバッジをつけてもらい、プリンセス・シアターで待つように言われる。そこで1時間ほど待って、船の外に出てターミナルを通り、フロントグラスのところに「Red 2」を表示されたバスを見つけた。

すると、何とそのバスのすぐ後ろにタクシー乗り場があるではないか! これなら明日の夕方、ツアーから帰ったら、そのままタクシーでホテルに行ける。良かった!

バスの乗車口には男性のツアーガイドがいて、イヤフォンセットを渡してくれた。恐らくはサグラダファミリアの中では大声で話せないので、ツアー参加者はこれで彼の解説を聞くのだろう。最近は海外で美術館に行ってもイヤフォンで聞く日本語のオーディオガイドがあるので、ツアーガイドに「日本語はないんですか?」と聞くと、真顔になってI’m sorry.と言う。Oh, its just joke.というと「アリガトウゴザイマス」と日本語で応える。

まず市内をバスで走る。コロンブス記念塔の前を通り過ぎると、ガイドが「あれはマリスカルという芸術家の作品です」とアナウンスする。黄色の、なまこかうなぎのように細長い意味不明のオブジェだった。

リスカル・・・? そうだ、私は彼に会ったことがある。もう25年も前のこと、バルセロナ・オリンピックの少し前のことだった。彼の描いた犬の絵がバルセロナ・オリンピックのメイン・キャラクターになり、彼の絵本の日本翻訳版を私が担当することになった。フランクフルト・ブックフェアで、マドリッドの出版社の社長とバルセロナ・オリンピック委員会の責任者と会い、契約締結に向けてファクスをやり取りして詰めていくこと約束した。その後、日本でイベントがあり、マリスカルが来日したのだった。まだ30歳代の若い青年だった。

その後、その出版社に何度も何度も、おそらくは十何回もファクスを送ったのだが、全くのなしのつぶて。一度も返事が来なかった。まだメールもなかった時代だ。結局、バルセロナ・オリンピックが終わってしばらくした頃、長文のファクスが届いた。詳しいことは忘れたが、およそこんな内容だった。「私の母が亡くなり妻の父親が死んだ。そして私の娘がひどい交通事故にあった。その後、妻と従弟が病気になり、私も体調を壊し・・・。そのためにファクスに返事ができなかった」。簡単に書いたが、もっと悲惨な目に遭った人の数は多かったと思う。45人なら信憑性があるが、このファクスには10人近くも彼の周辺で不幸な目に遭った人のことが記されていた。そうなると、もう笑うしかない。

翌年のブックフェアで、私の出版社のブースにオリンピック委員会の人が訪ねてきた。「出版社があまりにも不真面目でご迷惑をおかけしました」と謝る。やっぱり嘘だったんだ。この契約が成立していないことを、オリンピック委員会の責任者が知り、すぐに私にお詫びのファクスを送るように社長に言ったのだろう。

遠くにサグラダファミリアが見えて来た。バスはそれよりかなり離れた場所で停まり、私たちはバスを降りた。10分ほど歩くと、目の前にあのサグラダファミリアが見えた。ものすごい数の人でごった返している。そういえば何年も前に、林真理子週刊文春のエッセイに「サクラダファミリアに行ったら、そこに桜田淳子がいた」という話があった。なんで、こんなどうでもいいことばかり覚えているのだろう。

団体なので、全く待たずに入口を抜けて正面の広場に行くことができた。ガイドがファッサードの彫刻や、これから建築がどのように進んでいくかなどの説明をする。後ろ側には、今の塔の1.5倍の高さの塔が建てられる予定だと言う。「この教会には今世界中から人が集まってきて入場料はもちろん、寄付金もたくさん集まっています。それは宗教団体が集めているものではなく、ファンデーション(基金)というかたちをとっています」。

中に入る。下から見上げると、内側から見る塔もものすごい高さだ。ステンドクラスも片方が緑で、向かい側が燃えるような赤とオレンジになっている。塔の上に昇るエレベーターも列ができていたが、時間が指定されているせいか、それほど長くはなかった。何か、もう上に昇って怖い思いをしなくても、このままでいいなと思った。

バスはまた市内を巡り、坂を上がりモンジュイックの丘までやって来た。あの有森裕子がゴールに向かってひた走った場所だ。丘の上からは街中が見下ろせる。思ったよりはるかに高い丘で、すごく急な坂を昇らなくてはここまで来られない。ガイドに「オリンピックのマラソンのコースの最後は、こんなに急な坂だったんですか?」と聞くと、「ゆるやかな長い坂がこの丘を巻くようにあり、オリンピックではそこを走りました」と言う。「これからオリンピックススタジアムにも行きますよ」。

スタジアムの中にも入ることができた。かすかな記憶だが、聖火は下のグランドから先っぽに火をつけた弓を聖火台に向かって射って点灯したような気がする。あれがバルセロナだったのではないか? トラックは薄いブルーだった。前の日本の国立競技場にと比べても、それほど客席の数は多くないように思えた。

バスは午後2時に桟橋のターミナルの前に着いた。部屋に戻って1時間ほど昼寝をしていると、すぐに5時になった。いよいよ今日は、MerlinBob & KarenJeffともお別れの日だ。先に席についていると、MerlinそしてJeffがやって来た。少し遅れてボブとカレン。Merlinが最後の夜だからみんなにシャンペンをご馳走すると言って頼んでくれた。ジェフも何か飲まないかと言ってくれるが、酒に弱いのでといって辞退する。昨日はボブとカレンも夕飯に来なかったという。私と同じようにミニ鉄道に乗ってSollerに行き、帰ってきたのが、夜の9時近くだったと言う。

Merlinの奢りのシャンペンで、みんなで乾杯。私は酒が飲めないのでグラスに半分にしてもらったが、すごくおいしくてすぐに全部飲んでしまい、また半分ほどつぎ足してもらった。私はみんなに聞いた。「ネイティブ・アメリカンって酒に弱い人が多いでしょ?」。みんなうなづく。「それははるか昔、日本人やネィテイブ・アメリカン、南米のインディオなどモンゴリアンに起こった遺伝子の突然変異によるものなんです。もともと人には肝臓にアルコールを消化する酵素があったのですが、その機能が弱い人が突然生まれて、その子孫たちが今も残っているんです。ですから日本人の、そうですね3割くらいは私のように酒が飲めません」

カレンが「でもお酒が飲めなくても、他のことに時間を使った方がいいじゃない」と言う。彼女の言うことはいつも正しい。「そうだ、船のLibary(図書館)に行ったら、日本語の本があったので借りて来たの。ちょっと部屋に戻って取って来るから待ってて」と言って席を外した。何日か前の朝食の時に同じ席になったトロントから来たという夫婦も「図書館に日本語の本があったわよ。なにかtravelogue(旅行記)のようだったけれど、日本語が読めないのでわからない。その本は勝手に持っていっていいのよ」と教えてくれた。私はどんな本なのだろうと思って、行ってみたのだがみつからなかった。

戻ってきたカレンが「これよ」と言って差し出したのが、北杜夫の『どくとるマンボウ航海記』だった。「ああこれ15歳の時に読んだよ」と言うと、カレンは「この本、日本への帰りの飛行機で読んだら?」と言ってくれた。持ち出しが可能な図書館なのだ。私は「もう読んでおおよそ内容はわかっているし、他に読む本も持っているので・・・」と言って断ると、「じゃあ、また図書館に戻しておくわね」と言う。そういうふうにさっぱりしているところが彼女のいいところだ

『どくとるマンボウ航海記』 ―― 私に読書の楽しさを教えてくれた本だ。その前の『どくとるマンボウ青春記』も夢中になって読んだ。私の高校時代の友人のYくんも、この本と堀辰雄の『風立ちぬ』を読んで信州に憧れ信州大学に入学してしまった。

私は今月末で編集者としての仕事を終える。本が好きになり編集という仕事をしたいと思ったのも、北杜夫のこの本を読んだからではないか? すごい偶然なのかもしれないし、こじつけなのかもしれないが、私が編集者という仕事をするきっかけをつくってくれた本と、また最後に再会したのだ。私はカレンに向かって、「Karen, I changed my mind. I will read this book in the plane flying back to Japan.」と言って、その理由を話した。Merlinが「この旅の最後に、ものすごいドラマチックなエンディングが待っていたね」とつぶやいた。ジェフも「Yes! Yes!」とうなづく。

その時、突然アナウンスがあり明かりが消えた。このレストランのスタッフが明かりのついた燭台を持ってテーブルの間を行進し始めた。お客もみんな音楽に合わせて「オレー、オレー、オレー」と歌いながら、ナプキンを手に大きく振る。明かりがつくと、シェフ、マネジャーやウエイトレスの責任者が紹介された。みんな、毎晩おいしい食事を出してくれたことに感謝し、大きな拍手を送る。

私の14日の船旅は、この時終わったと思った。私は4人に言った。「あなたたちのことは絶対に忘れません。いつか日本に来てください。絶対ですよ。日本への旅の計画を立てる時にメールをください。理想的には船が横浜を出港する1週間ほど前に飛行機で東京に来てください。外国人では味わえない東京を案内します。近くの日光や軽井沢にも車で行きましょう」。

私たちは固く握手をして、ハグをして別れた。部屋に戻る時に、ゲストサービス・カンターに行ってみた。10人ほどが列をつくっていた。矢野さんはいつものように、真摯にお客様の対応をしている、彼女にも大変お世話になった。彼女の今後の人生も幸多かれと願う。

マジョルカ島の鉄道とオリーブオイル

4月15日、船はマジョルカ島パルマに着いた。朝9時に起きて支度をし、15階のビュッフェで朝食を食べていたら11時になってしまった。午後2時にはバスに乗って駅に行き、ミニ鉄道で島の真ん中の方にあるSollerという町に行くツアーに参加するので、3時間後にはまた船に戻って来なければならない(桟橋からターミナル前のタクシー乗り場まで歩いて25分から30分くらいかかることもあるので実質は2時間半後だ)。

いつも朝の行動開始が遅くて損ばかりしている。朝きちんと起きられてパッと支度ができたら、私の人生もずいぶん違ったものになっていただろうといつも思う。でも、これからは会社にも行かなくなるし、きちんと朝早く起きていろんなことができるように行動パターンを変えなければいけないと思うのだが、果たしてこの歳になってそんなことが可能なのだろうか?

午前中は、午後2時からのツアーの前に、タクシーに乗って名所を自分で回ることにする。桟橋からターミナルまで15分歩くと、やっとタクシー乗り場があった。山の上にあるエルベル城に行く。タクシーで15ユーロ、チップを2ユーロ払う。お城の入口を過ぎて、チケット売り場まで5分ほど歩くと窓口が閉まっている。隣のカフェで聞いたら「今日に日曜で無料だ」と言う。

この城からはパルマの市内が見下ろせる。円形の塔の上に昇ると、町や港だけでなく、恐らくオリーブの木だと思われる涼しげな感じの森が広がっている。ここはマジョルカ王の離宮だったところだが、中には博物館もある。この島で発見された大理石の像なども展示されていて、中にはカエサルの像もあった。「この島には紀元前123年にローマ人が移り住んだ」と言う。「その前には誰も住んでいなかった」と解説には書いてあった。ローマ時代より前の遺跡など、人が生活した痕跡が発見されていないからだ。今日は団体ではなく1人なので、じっくり時間をかけて解説が読める。これが自分本来の旅の仕方なのだと実感する。

でも、あまりゆっくりしてもいられない。今度は市街地に戻ってカテドラルを見に行こうとタクシースタンドに行くと、3台停まってはいるものの運転手がいない。そこに2人の中国系と思われる夫婦もやってきた。「クラウンプリンセスに乗っていらっしゃる方ですか?」と聞くと「そうだ」と言う。「私もです。午後2時からのツアーに参加するので、すぐに町のカテドラルを見て船に戻りたいんですが、運転手がいないんです」。

人を乗せたタクシーが、さっき閉まっていたチケット売り場の方からUターンして戻ってきた。そっちの方に行くと、すぐにタクシーが来て人を降ろした。「カテドラルまで行きたい」と言うと「OKだ」と言う。坂を降りて街中に入ると、大きな教会が見えて来た。スペインで2番目に大きな教会で、20世紀初めの改修にはガウディもかかわったのだと言う。教会に近づくと、車も混んできて渋滞になった。赤信号で停まっている時、運転手が「教会の前まで行こうと思ったけれど、ここで降りて歩いて行った方が早い」と言う。メーターを見たら9ユーロ50セントだったので、10ドルユーロを渡してタクシーを降りる。

パルマ市内観光の中心地らしく、ものすごくたくさんの人でにぎわっていた。時計を見ると午後1時。すぐに中を見て船に戻らなければ・・・。教会の隣にマジョルカ王の「アルムダイナ宮殿」もあり、聞いたら入場料が7ユーロだと言う。でも、ここを見ていたら、遅くなってツアーの集合時間に間に合わなくなるので入場を諦める。朝の支度が遅かったことを後悔する。仕方なしに、となりの教会に行く。入口の前に20mほどの列ができていたが、パリのノートルダムや郊外のシャルトルなど特に観光客が押し寄せるところ以外は、入場料を取るところはあまりないので、ただ中に入るための行列だろう。並んで3分ほどで入ることができた。広くてなかなか立派な教会だった。

120分になってしまった。教会の裏手の坂を降りるとタクシースタンドがあり、すぐにタクシーをつかまえることができた。港のターミナルまで12ユーロだった。運転手に20ドルを渡してから「お釣りを5ドルください」と言うと「ムーチャス・グラシアス」とお礼を言う。

早足でターミナルを歩き船の前の桟橋に戻る。135分。どうやらツアーに間に合ったようだ。

午前中のツアーはsold-outということだったので、この午後のツアーにしたのだが、今夜船は夜930分出発だったので、やはり先に午前中のツアーを終えてから、お城や教会をゆっくり廻ればよかった。そうすれば宮殿だって見学できたかもしれない。何事も早め早めに判断し行動することが必要だ。そうしていればサグラダファミリアも塔の上まで上がれたし、グエル公園にも入れた。

ツアーのバスは210分に出発し、市内を廻った後、電車の駅に着いた。そこで10分ほど待ってから、軌道の短い小さな「ビンテージトレイン」に乗る。黒部渓谷鉄道を思い出す。何日か前にも、金沢にクルーズ船が着くようになったということを書いたが、宇奈月からこの登山鉄道に乗るツアーなどもあるのだろうか? 外国の人はきっと大喜びするだろう。特に紅葉のシーズンは・・・。

電車は17マイルというから、約27キロを1時間ほどかけて走りSollerという町に着く。途中には黄色い(恐らくは)菜の花畑やオリーブの林もあり、どちらの匂いなのかはわからないが車内に良い香りが充満する。長いトンネルを抜けると、頂上に白い岩のある険しい山も見えてきた。谷の下を覗くとSollerの街並みも見える。駅に着いて町の中心の広場まで歩き、そこで20分休憩をする。カナダのトロントから来たという夫婦と一緒に広場の真ん中のオープンカフェに入り、また「ソモデナランハ」を注文する。「何を注文したのか」と聞かれOrange Juiceだと答える。集合時間になったので、お金を払おうとしたら、「いいよ、いいよ」と言うので、ありがたくご馳走になった。

オリーブ・オイルを伝統的な昔からの製法でつくっているという工場へ。まず工程の説明。地上に落ちたオリーブの実を拾い集めて、それを1トンもある三角錐の石の重しを転がして圧縮し液体にする。その上澄みの一番透明なところをすくって高級なオリーブ・オイルとして瓶詰すると言う。その後、小さな食堂に通され、パンとチーズ、ハムとオレンジジュースの夕食をとる。もちろんオリーブ・オイルはかけたい放題だ。ふと思ったのだが、日本でオリーブオイルをパンにつけて食べるようになったのは、いつ頃からだっただろうか?

もう5時半になっていた。いつも船のレストラン「ダヴィンチ」で同じテーブルを囲むみんなも「遅いなあ。何をしてるんだろう」などと心配しているかもしれない。カレンは午前中にこのツアーに参加し、私が午後の同じツアーに参加したのも知っているので、「今頃パンとチーズ、ハムにオリーブオイルをふんだんにかけた夕食を食べているかもしれないわよ」などと噂話をしているかもしれない。

帰りはバスで30~40ほど、居眠りをしている間に船に着いた。今日はビュッフェにも行かずに夕飯を抜くことにする。もうあの夕飯で十分満足だ。

部屋に戻ると、ドアの横のラックに「一昨日のジブラルタルのツアーで、天候のためにケーブルカーがキャンセルになったので20ドルを返却する」旨の手紙が入っていた。

いよいよ明日はバルセロナ。バスで市内観光をしてサグラダファミリアの中に入る。幸か不幸か塔の上には上がれないが、acrophobia (高所恐怖症)なので、まあいいとしよう。

そういえば、私はまだスカイツリーに行ったこともないし行くつもりもない。船で出会った人たちにアドレスを教え「東京に来たら案内するからね」と言ってはいるが、スカイツリーでは下で待っていることにしよう。

カルタジーナという町で歴史を想う

昨晩、ゲストサービス・カウンターの矢野さんと会ったら、このアメリカ―ヨーロッパ・クルーズでは日本人の乗客はすごく少ないと言う。何か月か前に日本人が乗ったが、かなり長いことアメリカに住んでいる人だった。だから純粋に日本からやって来た伊勢さんご夫妻や私は、この船ではとても珍しいらしい。

414日、今朝カルタジーナという町に着いた。このあたりだとバレンシアなどはオレンジで有名なのでよく知っているが、初めて聞く名前だ。Cartagenaと綴る。バルセロナWiFi無料のホテルに行くから、ゆっくりそこでネット検索してみよう。

今日はツアーには行かずに船にいてゆっくりしようと思ったのだが、デッキに出てみると、空も晴れ渡りきれいな町並みが広がっていた。中心地には昔の砦のような建物も見える。遠くには朽ち落ちた城壁らしきものも続いていたので、朝食を終えて行ってみることにする。

200mほど桟橋を歩いて左に曲がると賑やかな広場があった。坂を上がると、ローマ時代の屋外劇場の跡があり中で見学している人も見える。でも、どこから入るんだろう? 劇場の周囲に沿ってまた坂を昇って、一番上から劇場を見降ろしたが入口がない。

いろいろな人に聞くがわからない。1人が「あの上の城に入口がある」と言って、さらに続く丘の頂上を指さす。さっき船から見えた砦らしき建物だ。

スペインは8世紀から15世紀の終わりまでイスラム教徒に占領されたが、その時代に建てられたお城だった。スペインには「サングル・アズュール」(青い血)という表現がある。英語ではBlue Blood、それは「高貴な貴族の血統」という意味だ。純粋なスペインの貴族などは、肌が白く腕の血管が浮き出て、本当に肌が青く見えると言う。やはりスペインは、浅黒い肌をしたイスラム教徒のムーア人ではなく、青い血管が浮き出て見えるキリスト教徒の貴族が支配すべきという考えが根底にあるのだ。

もう40年も前、年末年始の休みにスペインを旅したことある。12日にはグラナダにいた。町の広場には大勢の人たちが集まり、大声で気勢を上げていた。聞いてみたら「レコンキスタ」(キリスト教徒による国土回復)が成し遂げられたことを祝う集会だった。アラゴンのフェルディナンドという王とカステーリャのイザベルという女王が結婚してスペイン王国をつくり、協力して最後に残っていたイスラム教徒のグラナダ王国を陥落させたのだが、その記念日だったのだ。

ちなみに、イザベルはコロンブスに資金援助をしたことで知られ、その娘キャサリンはイギリスに嫁ぎヘンリ8世と結婚するが、離婚されてしまう。キリスト教の教義では離婚は認められていなかったため、ヘンリ8世はローマ教会と決別し何と自分で「イギリス国教会」を創設してしまう。その娘がイギリスをカトリックの国に戻そうと、多くのプロテスタントを処刑した「Bloody Mary」(血まみれのマリー)で、いまはウォッカにトマトジュースを混ぜレモンをたらしたカクテルの名前にもなっている。

私はお城を見終わると、丘の裏から延びる陸橋がありその先にエレベーターがあったので、下に降りることにした。だが、そのエレベーター前の床は鉄製の網になっていて隙間から下の地面が見える。高さは数メートル。高所恐怖症の私は震えながら、この時サグラダファミリアで塔の上まで登らなくてもいいのではないかと強く思った。エレベーターが上がってきた時にはホッとした。降りるとその出口の横に、いま見てきた城の切符売り場があった。地図にはもうひとつCivil War Shelter「スペイン内戦時のシェルター」という博物館があったので、場所を聞いてみると、「エレベーターを巻くようにある螺旋階段を上がって2階にある。チケットはここで買える」と言うので入ることにした。

スペイン内戦は、第二次大戦の前の共和主義者の人民戦線と右翼の国民戦線との戦いで、この博物館はそのシェルター跡の洞窟だった。かなり激しいものだったことを物語る映像があったが、他にチャップリンの「独裁者」の一シーンもあった。ヒトラーに間違われた理髪師が「もう戦争はやめよう」と演説をする有名な場面だ。ショップの人に「戦闘機が爆弾を落としていましたが、それは第二次大戦中のドイツの爆撃ではないのですか?」と聞くと「いいえ、内戦時の映像です」と応える。「ドイツの戦闘機はバスク地方ゲルニカに爆弾を投下し、ピカソはあの有名な『ゲルニカ』を描きましたが、大戦中はドイツの飛行機もここまでは来なかったのですね」と尋ねると「Si」と言う。「私は40年前に初めてスペインに来ました。フランコが亡くなってすぐの頃で、独裁政権の名残が残っていました。日本語の旅行ガイドには、日本人が日本語で大声で話していて『フランコ』と言ったために逮捕されたことがあるので、絶対に『フランコ』と言わないようにと書いてあったことを思い出します」と言うと、「私はまだ小さかったので分かりません」と応えたが、「でもEUに加盟してからスペインが大きく変わったことは確かです」と彼女は付け加えた。

先ほどのローマ時代の野外劇場に入る入口は、今朝最初に行った広場の一角にあることがわかったので、そこまで戻ることにした。途中に両替所があったので、160米ドル分をユーロに変える。ドルを110円として計算すると136円だった。もちろんそれには手数料が含まれているのだが・・・。

ローマ野外劇場への入口は広場に面した建物にあり、地下を通って遺跡に入るようになっていた。これではわかるはずがない。船内で知り合った何人かの顔見知りの人とすれ違う。「船の出発は430分でいいんですよね」と聞くと「そう聞いてるわ」と応える。「乗り遅れたら大変ですね?」と言うと「あまり脅かさないでよ」と笑う。

船に戻る途中、喉が渇いていることに気づいた。ペットボトルの水は飲んでいたが、甘いジュースを飲みたい。カフェがあったので、カウンターで「ソモデナランハ・ポルファボール」と言うと、おかしな顔もせず普通にオレンジニュースを出してくれた。もう40年も前に覚えたスペイン語だ。水は「アグア」、ビールは「セルべッサ」。外国語は一所懸命に暗記してもなかなか覚えられないものだ。でも一度実際に使ってみると絶対に忘れない。そんなふうにして身に付けた英語単語やフレーズもたくさんある。

夜は「フォーマルディ」だったので、正装を持って来なかった私はレストラン「ダヴィンチ」に行くのをためらったのだが、一昨日の夜みんなから「ジャケットで全く問題ない」と言われたので、襟のある白っぽいシャツにジャケットを羽織って行ってみることにした。でもネクタイはしていない。もし断られたら、他に行けばいいや。

この時、イタリアのフィレンツェでイタリア語の学校に通いながら、ツアーガイドをしていた日本人女性の話を思い出した。彼女は元貴族という家系の友人ができ、彼の屋敷で開かれるパーティに招待されたのだと言う。町外れにあったので、自転車を漕いでその家に行くと、みんな正装をして車で来ていて、入口で車のキーを執事に渡していた。彼女は雰囲気にのまれてはいけないと思い、ママチャリの鍵をその執事に渡したのだと言う。

レストランで「この格好でいいか」マネジャーに聞こうとしたが、黙って入口を入りいつものテーブルに向かうと、BobKarenMerlinJeffがいて、いつものように快く迎え入れてくれた。Merlinは蝶ネクタイにスーツの正装、ジェフはグレーのスーツにネクタイ、ボブは私と同じようにズボンと色の違うジャケットを着ていてネクタイはしていなかった。カレンはお洒落なドレスを着こなしている。

「昨日の晩は何をしてたんだ。 I missed you ! (あなたがいなくて寂しかった)」とみんなが言ってくれる。「毎日、こんな豪華な食事をしていると健康が損なわれると思って、ビュッフェに行って軽く食べました」と応えた。「それで今日は何をしてたの?」とカレン。「ローマ野外劇場の入口がわからなくて、先にお城に行って、それから恐ろしいエレベーターに乗って、最後に劇場の入口がわかって・・・」と説明すると、「私たちも全く同じ」と言う。「ローマ劇場の入口がわからなくて、あのエレベーターも下が見えて怖かったわ」と言う。なんだ同じような経験をしてたんだ。

「英語で『高い場所の恐怖』のことを何ていいましたっけ? 確か『so-and-so(なんとか)phobia・・・』といったような」と聞くと、みんな「何かそんな単語があったけど、すぐには出て来ない」と言う。部屋に帰って電子辞書で調べると「acrophobia」だった。

明日はマジョルカ島に着く。午後のツアーで小型鉄道に乗る。午前中に町をぶらついて、できればBellver城までタクシーで足を延ばしてみよう。このクルーズもあと3日。彼らと一緒に夕食を食べるのもあと2回だ。

ジブラルタルの猿と高崎山の猿

4月13日、Wake-Up Callで朝6時半に起きる。745分に部屋を出て10分で朝食を済ませ、慌てて今日のジブラルタル・ツアーの船内の集合場所「プリンセス・シアター」へ。乗船した日の「避難訓練」で救命胴衣の着け方などの説明があった劇場だ。

また船の中で迷子になってしまい、集合時間に8分ほど遅れてしまった。劇場に入った時にはもう、参加者はツアーごとに分かれて桟橋のバスに向かっていた。私は受付で「23」と印刷されている小さな丸い紫のワッペン(裏側がシールになっていて服にくっつくようになっている。英語ではbadge「バッジ」と言う。日本語で「バッジ」と言うとスチール製の小さなボタンのようなものを想像するが・・・)を受け取ってシャツにつけたのだが、「23」という番号を呼ばれたので、訳もわからず行列の後について行った。船の出口ではルームカードのバーコードをスキャンしてもらう。また船に戻って来た時に、またバーコードをチェックして、降りた人が全員乗ったかどうかを確認するためだ。さらにもうひとつ、全く関係ない人が船に乗るのを防止するためでもある。

残念ながら雨が降っていた。桟橋の先では小さなマイクロバスがたくさん並んでいた。私は「Purple 23」という表示のあるバスに乗り込んだが、まだ誰も来ていない。5~6分もすると、どんどん人が乗り込んできて満員になった。ガイドから「今日は雨が降っているのでケーブルカーには乗れない」旨の説明があり、「まず最初にrunwayに行く」と言う。え? 滑走路? 飛行機にでも乗るのか?と思っていると、マイクロバスは街中に入り狭い道を走る。イギリス本土と同じようにroundaboutというロータリーがあるのだが、車が道路の右側を走っていることが大きく違う。

そのうちに突然、道路の左右が大きく開けてきた。そこは滑走路だった。何と滑走路のど真ん中を横切る道路をバスは走っていたのだ。きっと飛行機が離着陸する時には通行止めになるのだろう。その先には税関らしき建物があり、そこから人がどんどん歩いて出てくる。バスはその手前でUターンし、また滑走路を横切る道路を通って街中に戻っていった。数多くの人も延々と横断道路を歩いて、おそらくは職場へと向かっていた。

バスはどんどん狭い坂を上がり街を見下ろす展望台に出た。街の向こうに海があり、その先にはまた街並みが見える。あれはアフリカ大陸だろうか、それともジブラルタル海峡を取り巻く岬で、まだヨーロッパ大陸なのだろうか? 何しろWiFi接続時間が限られているのでネットで確認することもできない。その高台には野生の猿がいて、人の肩の上に載ったりバスの屋根の上に飛び乗ったりしていた。

昨日のディナーの時に、このジブラルタルの猿の話になり、その流れでカレンに「日本のほぼ真ん中にあるMonkey Hot Springを知ってる? そこがいま外国からの旅行者の間ですごい人気なんだよ」と言った。その温泉がある場所を日本で何と言っているか知らないが、とりあえずMonkey Hot Springと表現してみた。彼女は「映像で見たことあるわ。猿が温泉に浸かっているところよね。雪が降ると頭の上に積もって本当にキュート」と言った。 

ふと2月に大分に住む友人を訪ねた時のことを思い出した。別府から湯布院に向かって彼の車で走っていると、港に大きな船が停泊しているが見えた。そこからそのまま陸橋を渡って山側に行くと(野生の?)猿の放し飼いで有名な高崎山に至ると言う。友人は「高崎山は今クルーズ船でやって来る外国人がたくさん訪れていて大変な人気なんだ」と言っていた。「今、大分県はすごい。クルーズ船も誘致して寄港するようにしたし、外国人留学生をたくさん集めた国際的な大学もつくった。今の知事はなかなかのやり手だ」と珍しく褒めていた。

日本列島周辺を航行し、釜山とか台北シンガポールなどに行くクルーズもいくつかあるらしい。何日か前に話をしたカナダ人も、次には日本周辺のクルーズを予約したと言う(この船で次のクルーズを予約すると300ドルのディスカウントがある)。

去年の11月には金沢の友人を訪ねたのだが、兼六園から駅まで乗ったタクシーのドライバーも「もう忙しくて嬉しい悲鳴ですよ。新幹線が開通してもすぐにブームは終わって、元の静けさに戻るかと思ったらとんでもない。石川県知事と金沢市長がクルーズ船が寄港するようにしたら、いっぺんに何千人もの外国からのお客さんが上陸して、ものすごい賑わいなんですわ」と言っていた。クルーズ船の経済効果は抜群のようだ。

話をジブラルタルに戻すと、次に向かったのはイギリス軍が岩山に掘った軍事トンネル。船が外海から地中海に入るには、このジブラルタルか、中東から入るスエズ運河を通るしかない。このジブラルタルの地を支配すれば、ヨーロッパ全体をコントロールできた。イギリスは18世紀の初めからこの地を支配下におさめ、岩山の中にトンネルを掘った。その内部から外側に向けて穴を開け、大砲を設置して下にいる敵めがけてぶっ放したのだと言う。大砲の前には金網が張ってあったが、下を覗くとさっきの滑走路が見えた。

バスは午前11時半に船に戻った。ケーブルカーにも乗らなかったし、アッという間のツアーだった。私はいまだにガイドがいて、その後をついて行くというグループ旅行が好きになれない。チケット売り場や入場口に長時間並ばなくてもいいことだけが唯一のメリットだ。バルセロナでは入港日にサグラダファミリアへ、その翌日の下船日にはモンセラットへ行く。本当は時間に追われることなく自分のペースでじっくりと見学してみたいのだが・・・。

明日はCartageneという町に着く。日本語でいえば何と言う町なのだろうか? よくわからないのでツアーには行かず、船内でゆっくり過ごそうと思う。

なんて世界は狭いのか!

夜はぐっすり眠れた。「ぐっすり眠る」は英語でsleep wellと言うが、他にsleep like a logとも言う。「丸太のように眠る」ということだ。ビートルズHard day’s NightにもIv been working like a dog, I should be sleeping like a log「犬のように働いた。丸太のように眠りたい」という歌詞がある。

5時半に目覚めメールやLINEをチェックする。だがその後、なぜかまた眠くなって寝てしまい、起きると10時半だった。今日も11時にまた船内時計が1時間進む。するともう12時ではないか。それはこの船内だけの時間なので、おりこうさんのiPhoneの時間も当てにならない。腕時計のワールド・タイムを手動で1時間進めるとアテネの時間になってしまった。明日はジブラルタルに着く。ならばパリの時間にしなければいけない。でも、それでは1時間遅すぎる。よく考えてみたら、この私の時計のパリ時間は冬時間になっていたことに気づいた。腕時計のマニュアルを取り出して、夏時間へ変更の仕方を見て操作すると、ちゃんと夏時間になった。これで船内時計とスペイン・フランスの時間とが完全に一致した。

TV画面で船の位置を確認すると、磁石マークの後が98度になっていた。90度が真横だから、マデイラ島から少し斜め北に向かって進んでいることがわかる。

再度メールをチェックした時に、WiFiの残り時間が65分になっていることに気づいた。おかしい昨晩には130分残っていたはずだ。恐らく早朝に目覚めた時に寝ぼけていて、Logoffするのを忘れたのだろう。また注意不足で無駄使いしてしまった。

お昼をすぐに食べないと、豪華な夕食が食べられない。すぐに15階のビュッフェに行く。4人掛けのテーブルで1人座って食べているとおばあさんが「ここいいかしら?」と言って座った。名前はRita。ボストンに住んでいて、15年前にご主人を亡くされ、今回も1人で船に乗っていると言う。本当にいろいろ話が弾んで1時間以上も話をしてしまった。彼女も暇だし私も暇だ。血液の血清に関する臨床研究をしていたという理数系女子(「リケ女」と言ったっけ?)だった。

彼女は「今朝は船がずいぶん揺れたわね」と言う。「本当ですか? 私は全く気づきませんでした」と言うと、「私の部屋は一番下の階で水面より少しだけ高いところに窓があるの。窓に波が当たってうるさかったわ」と言って、今朝部屋の中で撮ったという画像を見せてくれた。

大きな波が嵐のように激しく上下し、部屋の窓を激しく打ち付けていた。そういえば、さっきプールの横を通った時、床がひどく濡れていた。そのせいだったんだ。激しく船が揺れると、プールの水も左右に動いてこぼれ出し周りの床に溢れてしまう。

彼女は「長いことNYに住んでいたこともある」と言う。「NYは世界1の都市だけど、そこに住んでる人はみんなNYが嫌いだと言うのね」。確かに私の知っているニューヨーカーは誰もが、この街のことをよく言わない。私はNYについて持論を持っていて「NYは金持ちにとっては最高に住みやすい街だけど、貧乏な人にとっては最悪だと思います。きっとRitaにとっては住みやすかったでしょう」と言うと、彼女は「そうかもしれないわね」と頷く。

私は以前から、ある1つの単語について疑問があったので質問してみた。――去年「Brooklyn」という映画を観ました。1950年代にアイルランドからNYに渡ってきた若い女性が主人公で、彼女はブルックリンに住み、働きながらbookkeeping(簿記)の学校に行って勉強します。日本語ではbookkeepingのことを「ボキ」と言います。英語の発音をヒントにして、もう100年以上前にこの日本語が誕生したらしいんですが、その映画の中では、彼女も周りの人も「ボキ」と日本語と同じ発音をしてました。でも「ブックキーピング」とは言ってませんでした。bookkeepingのことを「ボキ」と発音しますか? 

彼女は応えた。「そうは言わないわ。それはbookieではないかしら。bookmakerを短くした言葉で、競馬などの賭けを―― だいたいは不法に――私的にやる胴元のことよ」。でも日本語字幕では「簿記」と訳されていた。数字は何かのトリックを使えば、ごまかせることも多いので、「簿記」を少し軽蔑的に表現して「bookie」と言っていたのかもしれない。なにこれ、もう60年以上前の話だ。

2時半になったので、Ritaは部屋に戻っていった。私も部屋に戻ろうとしてエレベーターの方に歩いて行くと、伊勢さんご夫妻がテーブルにいらっしゃった。お皿には山盛りの料理が載っていたので、「もう2時ですが、こんなに召し上がっていいんですか? すぐにディナーですよ」と言った。それをきっかけに長話をしてしまう。もう3時半になってしまったので、私は部屋に戻った。

もうお腹一杯だし、こんな食生活は健康に良くないし・・・などと思い、今日はレストランに行こうか行くまいか迷ったのだが、やはりあの「ダヴィンチ」の料理は最高においしいし、みんなも心配するといけないので結局行くことにした。MerlinとBob&Karen、Jeffももう来ていた。いつもの固定メンバーだ。

今日は簡単にスープと少しの肉で済まそうと思った(昨日は軽くスパゲッティ・カルボナーラで済ませた)が、スープとビーフを頼んだ。昨日ココナッツの冷たいスープを飲んだらおいしかったので、きょうもそれがあるかと聞いたら、「残念ながら今日はありません」とウエィターが残念そうに言う。結局、ココナッツ代わりの「ピーチ・スープ」と「ビーフ」を頼んだ。

ピーチ・スープは甘すぎ、ビーフは私の好きなステーキではなく、ワインの味付けのソースに絡めた柔らかい肉だったので、あまり食べられなかった。

伊勢さんの席に行って、そのテーブルにいる人たちに「Mr&Mrs Iseは午後2時半にビュッフェでお皿に大盛りのランチを食べていましたから、夕飯には来ないと思いましたよ」と言うと、みんなが頷いていた。奥様が「それほど多くはありませんでしたよ」と言う。

デッキに出て海を眺めていた。確かに今日は波が高い。隣で海を見ていた男の人と何気なく言葉を交わすと、その人はTomという名で、日本・フィリッピン・ドイツの米軍基地で小学校の先生をやっていたと言う。「日本の岩国基地には3年いた」と言う。「岩国に赴任して数日はホテルに泊まっていましたが、最初の日の朝にホテルの窓を開けると、目の前に錦帯橋とお城が見えたんです。その時の感動と言ったら、私の人生の中でも最高の思い出です」と言う。

娘が住んでいるフロリダの町の名前を言うと、「えっ、そこで2週間前に結婚式があって出席してきたばかりなんだ」と驚き、彼はWhat a small world!「なんて世界は狭いんだ」、私はWhat a coincidence!「何と言う偶然でしょう」と言った。

バスはトボガンよりスリリングだった!

410日、どうも夜になると眼が冴えて眠れない。でも昼間は眠い。なぜかやっとわかった。時差ボケだ。この船が出港したフォートローダデールよりも時間が5時間進んでいる。この時差が意外ときつい。以前、NY1週間過ごした後、LAに行ったが、その時も時差ぼけですごく眠かった記憶がある。

朝起きると、船が揺れていない。マデイラ諸島Funchalに着いたようだ。TVで船の現在の位置を確認すると、アフリカ大陸のカサブランカと同じくらいの緯度にある島とくっついている。今日は植物園に行き、ケーブルカーに乗って、その後トボガン(ソリ)でアスファルトの急坂を滑り降りるツアーに参加。午後1時出発だが、集合時間は1245分、場所は船を降りてすぐの桟橋だ。

いつものようにビュッフェで朝食を食べてから、集合時間よりも1時間早めに船を降りて長い桟橋を歩き町の方に行ってみる。急斜面に屋根がオレンジ色で壁が真っ白な家々が連なっている。こんな大西洋の孤島なのに、たくさんの金持ちが住んでいるようだ。余生をこの静かな島で送っている人も多いのかもしれない。大西洋の孤島なのに、寂しさのかけらも感じない。島中がリッチで洒落たリゾートといった趣だ。

30分ほど歩くと、何とそこには以前BS-TVの旅番組で観たサッカーのロナウドの記念館があった。中に入って見学したかったが、集合時間があと30分後だったので諦めて戻ることにした。ロナウドDonaldと綴る。なぜDの音がRの発音になるかよくわからない。

桟橋に戻ると、何台ものバスが並んでいた。私のツアーの番号は003A、そのバスを探して乗り込む。まず街の中心部を走り、その後とても急な坂を昇り始める。道もとても狭い。坂の上の対向車線からも大きなバスが来た。私の乗ったバスは後退して、どうにかすれ違いができた。崖の端から20センチくらいのギリギリのところを走っている。なんだかソリよりもスリルがある。バスでこんな怖い思いをしたのは、かなり昔、奥多摩の駅から西東京バスに乗って日原鍾乳洞に行って以来だ。

ツアーガイドがアナウンスする。「大丈夫です、心配しないでください。このバスのドライバーはこの島で2番目に運転がうまいんです。一番うまい人はいま入院してますが・・・」。みんなドッと笑う。いつか私の本でこのジョークを使ってみようと思い、頭に叩き込む。

最初は植物園。この島は、他の世界とは隔絶されているために、特殊な植物がたくさんあり、世界遺産に登録されている。きっと植物に興味がある人が来れば、ものすごく面白いところなのだろう。

次にケーブルカーに乗り、ほんの数分で山の上の方にある駅に到着。以前、オーストラリアのケアンズ台北で乗ったケーブルカーの方がはるかに長く楽しい。もちろん箱根も捨てたもんじゃないが・・・。

その後、階段や急な坂を昇り教会へ。この教会に関連して、帰りのバスでまたガイドがジョークを言った。「この島では50%がCatholicカトリック)で、残りの50%がalcoholicアルコール中毒)です」。holicで韻を踏んでいる。これもいつか本で使ってやろう。

さあ最後のToboggan(ソリ)だ。ソリには他にsleighという単語があるが、一昨日のディナーの時、私はMerlinに「Is Toboggan sled?」と聞いてしまった。彼はYes! That’s right.と何の違和感もない顔で応えた。いけない、sleighなのになぜsledと言ってしまったのだろうか? でもsledってなに?と思い、電子辞書をチェックすると、何とsledもソリのことだった。なんでこんな単語が頭の片隅に残っていたんだろう(この3つのソリの違いについては、辞書にあるので省略)。

トボガンには2人掛けの座る椅子があり、下にソリがついている。そのソリの先端には紐が結びつけられていて、それを持った2人の“操縦士”が後ろに乗って向きを変えたりという調節をする。傾斜が緩やかになった場合は、ソリから降りて押したり、片脚で地面を蹴ったりしてスピードをつける。

私はこのツアーで親しくなったDallasという青年と一緒に乗り込む。かなりのスピードだ。地面のアスファルトがソリとの摩擦によってだろう、ピカピカに光っている。ソリが横向きになったと思ったら、自動車との対面通行の道路に出た。私が右側に乗っていたので、あやうく対向車とぶつかりそうになる。左側には側溝がある。うっかり落ちたりしないのだろうか?

交差点を走り抜けるとまだスピードアップし、最後の地点に辿り着いた。操縦士“の1人が「何か飲み物を飲みたいのでお金を」と言ったので、チップのことだと思い、降りてから小銭入れの中を見ると、訳のわからないユーロのコインがたくさん入っていた。2ユーロ・コインがあったが、それは300円くらいだったので、ちょっと高すぎると思い、慌てて違うコインをまさぐると30セント・コインがあったので、それを1枚渡す。よく考えてみると50円くらいだった。

降りた場所はカフェと記念写真の販売所を兼ねていて、トボガンに乗ったダラスと私の写真が出来上がっていた。早い! ほんの23分前に撮ったばかりの写真ではないか! 10ユーロか10ドルだと言う。財布を見ると5ユーロ札が2枚あったので、それを渡して買うことにする。ダラスは10ドルで払った。私は1500円、彼は1100円。400円損した。

ダラスはテキサス州Dallasと同じ名前、同じスペル。カナダのバンクーバーから来ていた。おじいさんと一緒にこのクルーズに参加。今日はおじいさんは船の部屋で休んでいて、今日のツアーには1人で参加したのだそうだ。建築士の仕事をしていて23歳だと言う。「私はその歳で、編集者としてのキャリアをスタートさせたんだ。42年も前のことだよ。いいね、君にはまだまだ素晴らしい人生が待っていて」。私がそう言うと、ダラスはThank you!と言ってニッコリ笑った。

船は夕方5時に出向して、明日は終日海を航行し、明後日ジブラルタルに着く。ヨーロッパ大陸とアフリカ大陸の間の町だ。私はスペインの南端にあると思っていたのだが、イギリス領だと言う。