旅三昧&ときどき読書+映画

私は小泉牧夫。英語表現研究家という肩書で『世にもおもしろい英語』『アダムのリンゴ 歴史から生まれた世にもおもしろい英語』(IBCパブリッシング刊)という本を書いています。2018年4月に 出版社を退職し、41年にわたる編集者生活を終えました。いま世界中を旅しながら、本や雑誌記事の執筆とともに、旅先ではこのブログを書いています。お金はありませんが、時間だけはたっぷりある贅沢な旅と執筆と読書と映画の日々を綴っていきたいと思います。

旅三昧&ときどき読書+映画

私は小泉牧夫。英語表現研究家という肩書で『世にもおもしろい英語』『アダムのリンゴ 歴史から生まれた世にもおもしろい英語」(IBCパブリッシング刊)という本を書いています。2018年4月に出版社を退職し、41年にわたる編集者生活を終えます。それからは世界中を旅しながら、本や雑誌記事の執筆をする予定。お金はありませんが、時間だけはたっぷりある贅沢な旅と執筆と読書と映画の日々を綴っていきたいと思います。

旧王宮とキュリー夫人博物館へ。そうだ、私の編集者人生はポーランドブームの中で始まった

630日(日)、いつものように朝7時までブログを書き11時まで寝る。12時にホテルを出て、今日こそワルシャワの旧市街へ。旧王宮を中心としたこの地区は、第二次大戦でナチスにより徹底的に破壊された。だが戦後、市民たちは「ヒビの1本にいたるまで」と言われるほど忠実に町を復元し、何年か前に世界遺産になった。

ワルシャワの地下鉄は縦に1本、横に1本あるだけで、あまり使い勝手が良くない。ホテルから旧市街までに行くには、まず中央駅まで西の方角に歩き、地下鉄で北に行き、また東の方に戻ってこなければならない。つまり「コ」の字を逆にしたような行程になる。だったらホテルからそのまま北に上がって行っても、歩く距離はほとんど変わらない。

おしゃれなブテッィクやカフェが並ぶ「新世界通り」を北に歩くと寿司屋があった。朝も昼も食べていなかったので、お腹がペコペコ。メニューの中から「クラシック寿司」と日本茶を注文。食べている時に味気がなくなり、味噌汁まで頼んでしまった。店主らしき人が日本語で話しかけてくる。こういう店を出すだけあって、かなり上手な日本語だ。

会計が何と90ズウォテイ。日本円にすると2700円だ。チップを入れて100ズウォテイも散財してしまった。日本のコンビニなら800円くらいで同じものが食べられただろう。もっと節約しなければと反省しながら旧王宮に向かう。

雲ひとつない晴天。パリでは45度の最高気温を記録したというが、そこまでの暑さではない。街はカラフルで明るい。これまで私はワルシャワと言えば、何か薄暗くて荒廃したイメージだった。それはやはりロマン・ポランスキー監督の「水の中のナイフ」やアンジェイ・ワイダ監督の「地下水道」「灰とダイヤモンド」「大理石の男」などモノクロ映画によって植え付けられたものだろう。「鉄の男」ではカラーになっていたが、かなりのモノトーンだった。他の監督の「ブリキの太鼓」という映画もあった。カラーだと記憶しているが、何か不気味な映画だった。

「水の中のナイフ」はストーリーは忘れてしまったのだが、なぜか手の指の間にナイフを次々に突き刺していくというシーンだけは鮮明に覚えている。親指の外側、次に親指と人差し指の間、また親指の外の戻って今度は人差指と中指の間・・・というふうに素早くナイフを動かしていく。指を刺してしまったら危ないと思っていたら、「これは難しそうだが、練習すれば誰でもできるようになる」というせりふがかぶさった。私も真似をして練習したら、すぐにできるようになった。ショーケン桃井かおりが共演した「青春の蹉跌」にも、同じシーンがあった。あれはポランスキー監督へのオマージュだったのだろう。

出版界でも一時ポーランドブームがあった。ポーランドは日本とソ連という広大な森を挟んで隣同士。憎き抑圧者ロシアにも戦争で勝っているから、なおさら日本と日本人には好意を抱いているという、そんな風潮があった。

ワルシャワ大学の日本語学科で教授を務めていた工藤幸男さんの『ワルシャワ7年』、奥さん久代さんの『ワルシャワ猫物語』という本もヒットした。私が出版社に入ったすぐ後だから1980年頃だったと思う。ワルシャワでは、今では普通に寿司もあるし味噌汁も飲めるが、当時は大変だった。久代さんの本だったと記憶しているが、ポーランドで「味噌」や「豆腐」をつくるための涙ぐましいまでの努力が詳しく描かれていた。その成分を化学式に当てはめて調合し、ビーカーやフラスコで量をはかって完成させたというのだ。

その工藤幸男先生が奉職していたワルシャワ大学の前を歩き、旧市街へ向かう。大きな広場があったが、なかなか王宮らしきものが見えて来ない。しばらく行くと、赤字レンガの門が見えてきた。

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その先には少し小さめの広場があり観光案内所があった。と言うことは、ここが旧市街の中心なのだろう。でも、今日は日曜で閉まっている。おかしい。王宮らしきものが見えない。犬を散歩させていた地元の人がいたので聞いてみたら、もう旧市街を通り過ぎて新市街に来てしまっていると言う。

元来た道を戻り、赤レンガの門をくぐると、先ほどの広い広場の前に大きな宮殿があるではないか。何度もテレビで見たあの赤茶けた王宮だった。

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もう245分。途中で食事もしたが、ホテルを出てからここにたどり着くまでに2時間45分もかかっている。チケットを買い、日本語の音声ガイドがあるか尋ねると「Not yet.」(まだありません)と言う。「No」ではなく、「今はないけれどいつか日本語ガイドも入れますよ」というニュアンスを含んだ、うまい否定の仕方だ。

数多くの部屋に入り、パネルの英語の解説を読みながらゆっくり進む。「玉座の間」には、広い部屋の一番奥に王様が座る立派な椅子が置いてあった。隣の部屋は面会する人たちの待合室になっていた。壁が緑の「緑の間」に続いて、薄い黄色の「黄色の間」もあった。なぜかこの部屋が気に入ってしまった。とても落ち着ける。椅子が2つあったので、そのひとつに腰掛ける。これまでは椅子には紐がかかっていて、座れないようになっていたが、その紐がこれにはない。ゆっくり座って部屋の雰囲気を味わっていたら、係の人が飛んできて「この椅子には座らないでください」と注意される。「座るのはプラスチックの椅子だけにしてください」。

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全部の部屋を見終えて、外に出るともう5時になっていた。観光案内所の先に「キュリー夫人」の博物館があるはずだ。夜8時までやっているから、そんなに焦る必要はないのだが・・・。地図を見ながら注意深く歩くが、どうしてもみつからない。また新市街の広場まで来てしまった。また地元の人らしき人を探して尋ねる。犬の散歩をさせている人か、乳母車に赤ちゃん乗せている人。手当たり次第、人に聞いても「私も観光客なんです」と言われるのが落ちだ。「ここをまっすぐに行けば、左にあります」と言う。また戻るがどうしても見つからない。ポーランド料理のレストランのビラを配っている人がいたので尋ねると、目の前の建物を指さして「ここだ」と言う。「運が良かったよ。明日は休みだ」。

もう5回も6回も前を通り過ぎたところだ。よく見ると、壁には「Muzeum Marii Sklodowskiej Curie」という青銅のプレートがはめ込まれている(ちなみに旧王宮も地図には「Rynek Strego Miastra & pl. Zamkowy」とある)。これではわからない。せめて英語を併記してほしい。

中に入って受付で入場料を払う。日本語のパンフレットが向かいの部屋にあると言うので手に取って見ていると、何と日本語で書かれた市街地地図もあるではないか。観光案内所に行けばもらえたものなのだろう。

2階でキュリー夫人に関する展示を見る。彼女はノーベル賞2度受賞していている。最初は「放射線現象」についての研究で夫と一緒に物理学賞。3年後に夫が馬車に轢かれて死亡するが、失意の中で研究を続け、今度は「ラジウム」の研究に関してノーベル化学賞を受賞した。それだけではない。何と娘夫妻が「人工放射能」の研究で化学賞を受賞している。全部で5つ、まさにノーベル賞一家だ。

キュリー夫人に関する書物は多い。世界中で数多くの本が出ているはずだが、ショーケースにはなぜか日本語の本ばかり展示されている。後になってその理由がわかった。受付の前の小部屋に大きな芳名帳があった。いろんな国の言葉で、名前や感想が書かれている。それを読んでいたら、日本語で「2019.6.30  日本から皇嗣ご夫妻のご訪問に同行」と書いてあり、その人の名前もあった。そうか皇嗣ご夫妻、というより秋篠宮様紀子様がいらしてたんだ。

受付の女性に「今日、日本からどなたかVIPがいらっしゃったのですか?」と聞くと、「はい、午前中に日本のprinceprincessにご訪問いただきました」と言う。「皇嗣」は英語ではcrown princeになるという新聞記事が読んだ。英語になると意味がとりやすくなることがあるが、これもその良い例だろう。

外に出ようと思ったら、2人の日本人の男性が入ってきた。「今日、秋篠宮様がここにいらしたらしいですよ」と言うと、「そうなんですか。今晩はワルシャワにご宿泊されるんでしょうか」と言う。スロバキアにある日本企業の駐在員だと言う。恐らく明日の月曜日にワルシャワで仕事があって前乗りし、少し時間があったので旧市街に来たのだろう。

旧王宮から裏手に廻り、ヴィスワ川のほとりの遊歩道をゆっくり歩いて、ホテルに戻った。

 

洗濯とショパンの1日

629日(土)、明け方にブログを書き終える。昨日ホテルの近くのコンビニで買っておいたパンをかじり、シャワーを浴びてコイン・ランドリーへ。ワルシャワに着いて最初に行くのが洗濯屋だとは、村上春樹ではないが「やれやれ」と言いたくなる。

ホテルの中ならWiFiが使えるので、一番近いコイン・ランドリーがどこかすぐにわかる。紙の地図にもその場所に印をつける。こうすれば街中でGoogle Mapが使えなくなっても大丈夫だ。歩いて20分とある。私の脚なら30分かかるだろう。

近くの公園を抜けて、幹線道路の下のガードをくぐり抜けてひたすら歩く。マップには「到着しました」と表示されるが、目的のコイン・ランドリーがどこかまるっきりわからない。行きつ戻りつしながら、うろうろすること10分。マンションの入口近くに「Eco- Speed」というコイン・ランドリーの看板があった。

洗剤はプラハに着いてすぐコイン・ランドリーに行った時に自動販売機で買ったのが半分残っていた。個々の選洗濯機や乾燥機にコインを入れるスロットはない。液晶パネル付きの機械があった。これで何らかの操作をするのだろう。スクリーンをタッチすると、いくつかの国旗が表示された。これは言語選択のためだろう。イギリスの国旗にタッチすると、表示は全て英語になる。

Washing」というところをタッチすると、次に「1.Washing」「2Washing」・・・というふうに10までの項目が出てきた。それぞれお湯の温度と洗う時間、金額が表示されている。だが、1も2も同じWashingで温度も時間も値段も同じだ。「1. Washing」の後の「30」は時間だろう。次に「20」とあったので、20ズウォテイ札をこの機械のスロットに入れると、スッと引き込まれていく。何かよくわからないが、これで受け付けられたようだ。

さて、次にどうしたらいいのだろうか? これまでの人生経験で得た記憶を総動員させて一生懸命に考える。すると、洗濯機には番号が1から10までついていることに気づいた。そうか、この液晶パネルの数字は、それぞれの洗濯機の番号なんだ。1番の洗濯機の液晶パネルが点灯している。この洗濯機を使えばいいんだ。

中に洗濯物を投げ込み、上の方にある箱に洗剤を入れて緑のボタンを押す。しばらく祈るような気持で見ていたら、洗濯機が回り始めたではないか!

その間、まわりに何があるのか偵察。歩いて5分ほどのところにショパンミュージアムがあった。チケット売場で、何時までか聞くと「夜8時まで」とのこと。そうだ、洗濯が終わったらここに入ろう。

洗濯が終わると今度は乾燥だ。パネルの「Drier」というところをタッチすると、乾燥機の番号、時間と値段が表示される。30分か45分か迷ったが、「45分・20ズウォティ」を押す。乾燥機は勢いよくまわり始めた。

45分ある。またブラブラ歩いていると、シュリンプ料理の小さな店があったのでそこに入り、シュリンプのテンプラを注文。パンも付いてきた。マヨネーズやチリソースなどをつけて食べる。おいしかった。

洗濯物を入れたビニール袋を下げて、ショパンミュージアムへ。クロークでバックパックと洗濯物を詰め込んだビニール袋を預ける。この高尚なミュージアムで預けるには、一番ふさわしくない荷物だ。

ショパンポーランドの作曲家。「ピアノの詩人」とも呼ばれ、数多くのピアノ曲を残している。私は列車で旅をしているので関係ないが、ワルシャワの空港はその名も「ショパン国際空港」。これには「坂本竜馬」もビックリだろう。

ところで、イタリア語ではショパンのことを「チョピン」と言うのをご存じだろうか? スペイン語でもそうだったかもしれない。私はテレビ大好き人間なのだが、ほとんどテレビ東京CSの歴史チャンネルしか見ない。例外は「ぽつんと一軒家」だ。これはテレビ朝日だったか? それはともかく、歴史チャンネルのドキュメンタリー番組を音声多重の英語放送で見ていたら、ショパンのことを「チョピン」と言っていた。一応「英語表現研究家」という肩書で本を書いている身としては、このおもしろいネタをいつか本に書いてやろうと思い、頭の中に叩き込んだのだった。ところがその後、念のために電子辞書の音声機能で発音を確認すると、まともに「ショパン」と言っているではないか? あれは幻聴だったのか? それともアメリカ人やイギリス人でも「チョピン」と言う人がるのか? 今その真相を突き止めているところだ。

この博物館は、もちろんショパンにまつわる展示が数多く並んでいる。実際にショパンが弾いていたというピアノもあった。大きなスクリーンでは、日本人らしきピアニストが感情豊かにショパンの曲を演奏する映像が流れていた。隣に暗い部屋があり、何台もの液晶パネルがあった。ワルツ、バラード、ノクターンなどの形式別にショパンの曲のほとんどが聴けるようになっている。

ワルツのパネルで、一番上の「ワルツ、Eフラットメジャー」という部分にタッチすると、何と流れてきたのは「子犬のワルツ」ではないか。子供のピアノ発表会でも一番多く演奏される曲だ。こんな有名な曲だけではなく、何だ、この美しくもおもしろくもない曲はと思わざるを得ないものもあったが、おそらくこのタッチパネルにはショパン作曲の全作品が聴けるようになっているのだろう。1時間以上かけて20曲も聴いていると、素人の私でもショパンがなぜ「ピアノの詩人」と呼ばれているかがわかるような気がした。

午後7時、洗濯物が入ったビニール袋を提げて最高の気分でホテルに戻る。ポーランド1日目は、洗濯とショパンという奇妙な取り合わせで終わった。

ベルリンからワルシャワへ。亡き友を想い、旅の神様と出会う

628日(金)、夜中に起きて朝7時までブログを書く。そのまますぐに昨晩疲れていて行けなかったコイン・ランドリーに行こうと思ったが、やはり大事をとってやめることにした。1232分のEC(国際特急)でポーランドワルシャワに行く。もし何かハプニングがあって行けなくなったら大変だ。部屋で9時までに睡眠をとって、それからゆっくり支度をしてホテルをチェックアウトすることにする。でも本当ならば、ベルリンで洗濯を済ませておきたかった。ベルリンなら英語でも説明があるだろう。でもポーランドではどうか? コイン・ランドリーは庶民の生活の場。地元の人が利用するものだから、英語の説明があるかすごく不安。ポーランド語だけで、そこ誰もいなかったら、どうすることもできない。一抹の不安を抱えながらも、まあどうにかなるだろうと9時にアラームをセットし、ベッドにもぐりこむ。

9時に起きてシャワーを浴び、荷物をスーツケースに入れる。朝食は駅か列車の中で食べよう。iPhoneマップで駅までどのくらいかかるかチェック。だが地下鉄Uバーンと高架鉄道Sバーンではなく、バスで行くように表示されている。黄色い△の中に!マークが。ドイツ語で何か表示されているが、事故でストップしているのか単なる遅延なのかわからない。

海外はこれだから油断はできない。でも、まだ時間はある。最悪の場合はタクシーでベルリン中央駅に行くことにしよう。しばらくすると、UバーンとSバーンも通常に戻っていることがわかって一安心。

今日はiPhoneの充電を列車の中でもできるように、電源プラグと変圧器をバックパックの中にいれた。場合によっては、ブログも書けるかもしれないと、パソコンも突っ込む。水がこぼれるとまずい。ミネラル・ウォーターの大きなペットボトルもキャップの閉まり具合を確認。

11時にフロントでチェクアウト。列車の出発時間まで1時間半あれば、たいていのハプニングにも対応できるだろう。この3日間は毎日7ユーロで1日有効のチケットを買っていた。その金額を十分回収するだけ交通機関に乗っていた。でも今日はUバーンに1駅乗ってSバーンに乗り変えて1駅で中央駅だ。1回だけのチケットを買おう。だが一度降りて次の駅で乗り変えるとなると1回だけの乗車券でいいのか? 念のために7ユーロで1日有効チケットを買った方がいいのか? フロントで聞くと「1回の乗車券でも2時間以内なら、何度でも乗り換え可能」とのこと。

やはりスーツケースは重い。地下鉄Uバーンのホームへはエレベーターで降りることができた。次の駅で降りて、高架線Sバーンへ。何度かエレベーターを乗り降りして、やっと中央駅に到着。まだ時間があったので、カフェで朝食。酢漬けの魚を挟んであるサンドウィッチがあったので、コーヒーと一緒に食べる。

あと10分で発車だ。ホームは11番線。矢印の方向に急ぐ。途中で矢印が上を向いている。エスカレーターで1階上に上がる。やっと11番線の下の通路まで来た。エスカレーターでホームに上がると、その列車のボディに「1」とあった。ファーストクラスだ。バックパックから予約券を出して車両番号を確認すると「272」とある。列車のボディにも「272」という数字がある。この車両で間違いない。

重いスーツケースを持ち上げて乗り込み、私の「66」という席を探す。また中央の向かい合ったボックス席。進行方向前向きだ。その間にはテーブルもある。だが、スーツケースを置くラックがどこにも見当たらない。車両の一番端まで行っては戻ったりしてうろうろしていると、そこに座っていたカップルの男性から「What is your seat number?」と聞かれた。「66番で、ここなんですが、スーツケースをどこに置いたらいいのかわならなくて」と言うと、その男性が私のスーツケースを持って棚に上げようとする。えっ、こんな重いのを上に上げるの?と思っていると、前向きと後ろ向きの席の背もたれの間に、ちょうどスーツケースが置けるくらいのスペースがあることに気づいた。彼はそこに私のスーツケースを滑り込ませた。私の席のすぐ後ろだから安心だ。2つの背もたれの隙間に荷物を置くという発想自体が私にはなかった。

2人はポーランド人で、クラクフまで行くと言う。「Are you on a holiday?」と聞くので「去年リタイアしたのでlong, long holidayなんです。1か月かけて中央ヨーロッパをまわっています」と言うと、「それはうらやましい」と言う。

列車は静かに走り始めた。市街地を抜けると、車窓には広々とした田園風景が広がる。座席の下にコンセントがある。さっそくiPhoneを充電。アマゾン・ミュージックのアプリで、Jポップのヒットソングを聞く。「川の流れのように」はわかるが、「Love Love Love」「True Love」は昭和の曲だろうか? 「ロビンソン」や「Pride」はもう平成に入っていたかな? 「Tomorrow」は阪神大震災の後でヒットした曲だから、明からかに平成だ。「ハナミズキ」も平成だろう。この平成の30年間にいろいろなことがあった。大変なことも多かった。でも、それを乗り越えた今、とにかく定年後の生活をこうして楽しんでいる。

どこまでも続く黄緑の平原と深緑の木々、青い空に白い雲がふんわり浮かんでいる。ふと、去年読んだ岩波文庫の『アンリ・ライクロフトの私記』という本を思い出した。ロンドンに売れない貧乏な作家がいた。満足に食事をするお金もなく、いつもお腹をすかせている。でも買いたい本があると、食事を抜いて切り詰め購入する。そんな爪に火を点すような生活をしていた男の人生が激変する。親友が亡くなり、その人には奥さんも子供も親戚もいなかったために、莫大な遺産が彼に遺されることになったのだ。

その貧しかった作家は南イングランドの森の中の邸宅を購入し、お手伝いさんをひとり雇う。食事の支度や掃除洗濯など日常の雑務の一切から解放されて、ひたすら執筆と読書、思索をし、日課として森の中を長時間散策するのである。何と理想的な生活ではないか?

3月に親友の田渕髙志さんが亡くなった。「篤姫」や「江」の脚本を書いた放送作家田淵久美子さんのお兄さんだ。死因は脳溢血。ある編集者が何度も電話したがなかなか出ない。メッセージを残しても返信がない。もともと時々音信不通になり、普段からなかなか連絡が取れない人だったが、さすがにおかしいということで部屋に行くと、そこで亡くなっているのが発見された。

ものすごくショックだった。悲しかった。心の奥底からお互いを理解できる人というのは一生の間にそう何人も出会えるものではない。私にとって田渕さんはそういう存在だった。私の著書『世にもおもしろい英語』『アダムのリンゴ』についても、「読んでいる最中ずっと頭の中が知的興奮で渦巻いていた」と言ってくれた。小学校と中学校で図書館の本を全部読破したと言う伝説も残っている。それだけの本を読み込んでいるから、文章はものすごくうまかった。本当の天才だった。「それに比べて、私は・・・」と何度自分の才能のなさを嘆いたことだろう。

その田渕さんに今度会ったら手渡そうと思っていたのが、この『アンリ・ライクロフトの私記』だった。きっと感動してくれたに違いない。「理想の生活だよね。わかる、わかる」と言ってくれたと思う。

私は失礼かもしれないとは思ったが、息子さんに私の書き込みがあるこの本を送った。お悔みの言葉に「悲しみが癒え落ち着いたら、ぜひこの本を読んでみてください」と書き加えて。私は生きている限り、親友であった天才、田淵高志を決して忘れないだろう。

列車はベルリンから時間ほどでポーランドに入った。その駅で若いカップルがボックス席の通路側に座った。彼らはしばらくすると、テーブルの上にサングラス、椅子の上に本を置いてどこかに行ってしまった。おそらく食堂車に行ったのだろう。30分ほど走っただろうか。次に年老いた女性がひとり私の向かいの窓側の席に座った。

べルリンから4時間ほど、かなり大きな駅に着いた。クラクフに行くというカップルは、乗り変えのためにそこで降りた。大勢の人が乗ってきた。何人かの人から私の隣の通路側の席が空いているか聞かれた。「ここに2人座ってました」と説明すると、テーブルの上のサングラスを見て諦めていった。恰幅の良い男性が来て、その席に座ろうとしたので、「この席は埋まっています。きっとレストランに行っていると思うのですが、はっきりしたことはわかりません」と言ったのだが、それを無視してどっしりと腰を降ろした。私の隣の席にも若い男の人が座った。

1時間ほどすると2人が戻ってきた。恰幅の良い男性は不機嫌そうに席を立った。若い男性は深く眠り込んでいて肩をゆすっても起きない。膝のところを強く叩くとやっと目を覚ました。

トイレに行く時に気づいた。ものすごく混んでいる。車両の連結部分にも多くの人が立っていた。トイレが閉まっていたので、別のトイレに行くと、先ほどの恰幅の良い男性が蓋をした便器の上に座っていた。さすがにドアは開けてあったが・・・。予約をしておいた方がいいという理由がこれだったんだ。

座席に戻ると、パソコンを取り出してブログを書き始めた。思ったよりも集中できる。1時間ほど書いて、窓の外の景色を眺める。世事から解放されて、こんな深い森の中を毎日散策して過ごせたら、どんなにいいだろうと思いながら。

列車はベルリンを発車して5時間でワルシャワ中央駅に着いた。今日はiPhoneも十分に充電されているのでホテルまで歩いて行こうと思っていたが、何と地図が表示されない。ウィーンのモバイルショップでSIMカードを買った時、周囲の国でも使えるといったのに。ポーランドではダメなのか。仕方なしに、ロミングにする。お金はかかるが、このポーランドの携帯会社の電波を使うのだ。

やっと地図だけは出るようになった。自分が今どこにいるかもわかる。だがホテル名を入力しても「その場所は検索できない」と出てしまう。弱った。どうやってホテルまで行けばいいのか? とにかくインフォメーションを探そう。掃除をしているおばさんがいたので、英語で聞いて見ると、何事か言って上の方を指さす。偶然そこを通りかかった、もうひとりのおばさんが「ナンバー・ワン」と教えてくれた。

2階に行くと、チケットを買うための窓口が並んでいたが、1番にはインフォメーションの「i」というマークがついている。5人ほど列をつくって並んでいたが、すぐ私の番が来た。「シェラトンホテルに行きたいので、シティマップがあるか」と聞くが、「ここは列車のインフォメーションだけだ」と言う。

仕方ない、タクシーで行こう。そのためにはポーランドのお金がいる。ATMでお金を引き出そうとしていると、先ほど窓口の番号を教えてくれたおばさんがやって来て、「1番の窓口で大丈夫だった?」と聞く。

「ここは列車のインフォメーションで市内のことはわからないそうです。諦めてタクシーで行くことにします」と言うと、「タクシーは高い」と言う。「Sheraton Hotelなので、シティマップがあれば歩いて行けると思うんですが」と言うと、「ちょっとここで待ってて」と言い残してどこかへ行ってしまった。私がATMでお金を降ろし終わった頃、そのおばさんがどこからともなく現れ、「地図をもらって来たわよ。ここが中央駅で、ここがCheraton」と言う。見ると、駅とホテルには丸印が付いている。それにしても、駅構内には観光案内所もないのに、どこで地図をもらってきたんだろう。

おばさんは身なりもみずぼらしいし、持っているビニール袋に空のペットボトルをいくつか入れている。日本ならホームレスと言っていい風体だ。でも少し英語もしゃべるし行動もテキパキしている。不思議だ。いつも何か困ったことが起こると、誰かが現れ私を助けてくれる。「旅の神様っているんじゃないか」と、その時本気で思った。私は、その神様のおばさんに丁寧にお礼を言って別れた。

道路は広く建物のひとつひとつもバカでかい。想像していたワルシャワと違う。ホテルまで私の脚で歩いて20分。無事にSheraton Hotelにたどり着くことができた。

 

宗教改革はWittenbergから始まった

627日(木)午前10時半、ベルリン中央駅から電車でRutherstadt Wittenbergという村へ。

1517年、この村にあった大学の教授で司祭でもあったマルティン・ルターが、教会の門にローマ教会を批判する張り紙を掲げた。日本語で「95カ条の論題」と呼ばれるこの1枚の紙が、その後のヨーロッパの歴史を大きく揺るがすことになる。

この頃ローマ教会は「贖宥状」(しょくゆうじょう)という札を発行していた。お金を払ってこの札を買えば、犯した罪を償うために課せられる苦行難行を免除されると言うのだ。この札は日本では「免罪符」と呼ばれるが、その言い方ではこの札の正確な意味を表していない。「罪を免除」するのではなく、「罪を償うために行わなければいけない苦行」を免除すると言うものだった。だから「免罪符」という日本語には、異議を唱える人もいる。

この贖宥状の販売に対して、マルチン・ルターは異議を申し立てたのである。彼はローマ教会から破門され、ザクセン選帝侯の庇護のもとでラテン語の聖書をドイツ語に翻訳する。こうして、聖書は一般の人々が理解できる身近なものになった。

その後、ヨーロッパ世界は、ローマ教会のカトリックと新教のプロテスタントに二分されることになる。これまで私が多少なりとも書物を読んで得た理解では、カトリックは組織的にしっかりとした基盤を持っていた。だから聖書の勝手な解釈ができなかった。最高位の聖職者たちの会議で聖書の解釈もきちんと決められ、司教の個人的見解を基に自由に説教することも禁じられていた。教会での典礼の方法も事細かに決められていた。これに対して、プロテスタントは「聖書に帰れ」と主張した。ひとりひとりが聖書を通して神と直接つながっているという考えで、これを「福音主義」と言う。だが聖書の解釈は人によって違ってくる。そのためにいろいろな分派が生まれた。

イングランドでは、王様がカトリックか、プロテスタントかによって国の方針が180度変わった。Maryという女王はカトリック国スペインの血筋で自分も熱心なカトリックだったが、改宗しないプロテスタントを何人も処刑した。ウオッカに赤いトマトジュースを混ぜレモンジュースをたらしたカクテルは「ブラッディ・メアリー」と言うが、この女王が処刑した人々の血の色からの連想で名づけられたものだ。

電車は1時間半でWittenbergの駅に到着。意外と現代的な駅舎だった。構内に観光案内所でもあるかと思ったが、カフェと売店があるだけ。せめて売店でルター関係の本でも扱っているかと思ったが、何の変哲もない普通の駅の売店だった。宗教改革の端緒となった世界遺産の村だ。世界中から多くの人が訪れているに違いない。日本だったら、まんじゅうやチョコレートを売り出したりして、大変な騒ぎになっているだろう。駅名こそ「ルターシュタット・ヴィッテンベルク」だが、駅の中にも外にも「ルター」の「ル」の字もない。

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駅の出口に「←CITY」という小さな看板があったので、そっちに向かって歩く。線路に沿って遊歩道のようにきれいに整えられた道を歩いていると、若い女性に追い抜かれた。手には何かパンフレットらしきものを持っている。後ろから「村はこっちの方向でいいんでしょうか?」と声をかけると、「すみません。私にもよくわかりませんが、おそらく大丈夫だと思います」と言い、「いま駅でもらったものですが、2枚あるので1枚差し上げます」と地図を指し出す。「ありがとうございます。今の私が一番欲しいものです」と言って受け取る。ドイツ人だと言うが、ドイツ人でもわからないなら、日本人の私が迷うのも当然だ。彼女にお礼を言って、私はまたゆっくり歩き始めた。

まずは、その地図にあった「ルターハウス」に。ルターが実際に住んでいた家が博物館になっている。1517年に印刷されたという「95カ条の論題」の小冊子があった。実際に貼りだされたのは手書きだったと思うので、すぐあとで印刷されたものだろう。この時の様子を描いた絵もあった。

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鉄でできた頑丈そうな「贖宥状のチェスト」も展示されている。解説には「集められたお金は、関係者が全て揃わないと開けられないようになっていて、3重にカギがかけられていた」とある。なぜローマ教会のものがここにあるのか? 本当に使われていたものではあるのだろうが。 

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画家のクラナッハ父が描いたルターの肖像画もあった。クラナッハも確か、この村に工房があった。去年か一昨年に上野の美術館で開かれていた「クラナッハ展」でも同じ絵を見たことがある。昨日行った歴史博物館にもこの絵があった。みんなクラナッハが書いた本物なのだろうか?

圧巻は、ルターが翻訳した「ドイツ語聖書」だった。厚さが15㎝近くあった。この本は宗教改革の波に乗ってベストセラーになった。グーテンブルクが開発した印刷技術によって大部数の本の印刷が可能になったことも宗教改革を後押しした。

ルター博物館を出て、さらに村の中心に向かうと広場があった。その一角にあった「クラナッハ博物館」に入る。受付の人に「クラナッハ展が東京で開かれていて私も見に行きました。すごい人気だったんですよ」と言うと、とても喜んでくれた。1階と2階だけの小さな博物館だったが、クラナッハには父と息子がいるが、その2人の作品が展示され、いろいろな絵画技法も紹介されていた。

もう2時50分前になっていた。チケットに刻印されたバルリン行に戻る電車の時間は305分。もう間に合わない。昨日チケットを買った時に、「この時刻に乗り遅れたら、別の電車に乗ってもいいのか」と確認すると「大丈夫だ」と言われていた。諦めて5時か6時の電車でベルリンに帰ろう。ヨーロッパ的な「いい加減さ」が身に付いてきたようだ。

さらに先に進む。この村は細長い。中央を貫く道の両側にはレストランやカフェが並び、観光客が椅子に座り、ゆったりと食事やお茶を楽しんでいる。その道のつきあたりの村はずれに、ルターが門の扉に「95カ条の論題」を貼ったという教会があった。何人かの観光客がその扉の写真を撮っていた。

 

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中に入るとミサが行われていた。祭壇の前では30人ほどの人が讃美歌を歌っていた。教会の人が「英語でミサをしていますので、前の方へどうぞ」と言ってくれる。しばらく讃美歌に耳を傾け外に出ると、塔に昇る螺旋階段があった。入口には機械があり、表示にはユーロ・コインに✖が付いていて穴があいた特別のトークンの写真があった。若いカップルがそのトークンをスロットに入れて入った。どこ手に入れたのか聞くと、中庭の中にインフォメーションがあり、そこで買えると教えてくれた。

中庭のインフォメーションで穴の開いたトークンを買うと、先ほど教会の中で声をかけてくれた男性がいた。「中庭を通って塔まで行くのは大変なので近道をご案内します」と言う。後ろを着いて行くと、そのまま先ほどの教会内部に入った。まだ讃美歌が続いていた。外に出ると、すぐ前が塔に昇る螺旋階段への入口だった。

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すごく長い螺旋階段だった。これまで数多くの塔に登ってきたが、こんなにきつかったのは初めてだった。いくら上がっても頂上に着かない。火事があったパリのノートルダムには56回、いやそれ以上登っているが、こんなにきつくはなかった。もしかしたら、歳をとって脚力がなくなっているせいか?

やっとのことで尖塔の上まできた。村の家々や遠くの森も見渡すことができる。さらに上へと階段は続いていたが、そこには格子がありカギがかっていた。鐘を鳴らす時にだけカギを開けて鐘楼に登るのだろう。

駅に戻ることにした。延々と続く石畳の歩道は歩きにくい。こういうのを「脚が棒のようになった」と言うのだろう。4時になっていたが、お昼をまだ食べていないことに気づき、途中のカフェでパスタを食べる。

駅に戻って売店の人に「この村の観光地図はないんですか?」と聞くと、ベルリンやドイツの地図はあるが、この村の観光地図はないと言う。村に向かう時に出会ったあの彼女は、どこで地図を入手したのだろか? 不思議だ。

列車が来た。ベルリンに着いた後、さらに先に行く長距離列車。私が乗る予定だった3時の電車は各駅だったが、まあ問題はないだろう。ものすごく混んでいる。一番前の車両までに行くと、ひとつだけ座席が空いていたので座る。疲れていたのでぐっすり眠り、ベルリン中央駅に着く直前で目が覚めた。

ホテルに戻ってから、洗濯物を抱えてコイン・ランドリーに行こうと思っていた。iPhoneでチェックすると、地下鉄で5駅行ったところにあるらしい。でも洗濯と乾燥を合わせると、1時間半以上かかるだろう。一帰りにも時間がかかる。諦めてベッドで横になる。

夜中に起きて明け方までブログを書き、そのままコイン・ランドリーに行くことにしよう。朝6時からやっているようだし・・・。

 

ドイツ歴史博物館とイーストサイド・ギャラリー

626日(水)、午前11時にホテルを出てドイツ歴史博物館へ向かう。ホテルのすぐ近くで路面電車に乗って10分ほど、Staatsoperという停留所に到着で降り、そこから10分、迷いながら歩いて博物館にたどり着く。ネットでは「ベルリンでは『壁』に関する施設以外は、それほど大したものはない」といった」いった情報が多かったが、この歴史博物館の展示は充実していていた。

まず2階に上がると、これまでドイツの国境がどのように変化してきたかを説明する大きなスクリーン映像があった。3分ほどだが、ヨーロッパの真ん中で国家を維持するということは、本当に大変なことなんだなと実感。

隣の小さな暗い部屋に入ると、ドイツの歴史の流れを紹介する30分ほどのVTRが流れていた。みんな一生懸命に見ている。ドイツ語のナレーション、英語の字幕付き。一番前の椅子だけが空いていたので、そこで見ていたのだが、首を左右に振りながら英文字を追ってもほんの0.5秒で消えてしまうこともあった。そこで1回目を見終わると、後ろの席に移動して2回目を見た。すると瞬間的に英語文の全体がつかめるようになった。

中世の初めにフランク王国が誕生し、3つに分かれ、それそれがフランス、イタリア、ドイツに繋がっていく。そこから始まって、神聖ローマ帝国宗教改革第一次大戦ヒットラー独裁政権から第二次大戦終了、東西冷戦時代、ベルリンの壁崩壊、東西統一ドイツ成立、EU誕生まで・・・と、瞬時も目を離せないような充実した内容だった。

この映像を見ていて思い出したことがある。ベルリンの壁が崩壊したのが1989年、その翌年に東西統一ドイツが誕生したのだが、その26年前、あの1964年の東京オリンピックには東西ドイツが統一チームで参加している。私は小学校5年生だったが、統一旗は赤・黒・黄色の三色旗で中央には五輪マークがあった。ドイツの選手が金メダルを獲ると、国家の代わりにベートーベン交響曲第9番「喜びの歌」が流れた。そんなことを実体験として記憶している人も少なくなった。

それにしても、この歴史博物館の充実ぶりはすごい。『地球の歩き方』の「ドイツ」判は持って来なかった。だから、どの博物館・美術館が行くべき価値があるところなのかが、ネット情報だけではいまいちわからない。昨日も行ってみたら拍子抜けというところがあった。日本に帰ったら『地球の歩き方 ドイツ』を買って、この博物館にどのくらいのページが裂かれているかを見てみたい。

16世紀のコーナーにマルティン・ルター肖像画があった。クラナッハの作品だ。去年か一昨年かわからないが、上野で開催された「クラナッハ展」でもこの絵を見たはずだ。全くおなじものなのだろうか?

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それぞれの時代別に絵画や宝物を見ていると、入場してから2時間が過ぎていた。でもまだ半分、1階には20世紀以降の事柄の展示がある。結局この博物館を出た時には330分を過ぎていた。

急いでイーストサイド・ギャラリーに向かう。川沿いの道に沿って壁が残っていて、そこにたくさんのウォール・ペインティングがあると言う。iPhoneで地図を見ると、博物館を出て向かいのStaatsoperというバス停から100番のバスに乗ると行けるようだ。

iPhoneの地図と私がいる場所が正確に重なった。ベンチもあったので10分座って待つ。そこに100番のバスが来た。でも素通りされてしまった。さらに15分、またバスが来たので、手を振って合図を送るが、またもや停まってくれない。なぜだろうか? ちゃんと屋根のところにStaatsoperと表示されているのに。

前方を見ると、150mほど先にバスが停車し、どうもそこで人を乗せているらしい。私がいたところには、このバス停の名前も表示されていて屋根もベンチもあるが、停留所のⒽというマークだけがない。どうもここではないらしい。

バスが停車していたところに行ってみると、そこにはⒽというマークが表示されていた。ここがバス停だったんだ。何と紛らわしいことだろう。向かいにはフンボルト大学があり、何人もの学生が道路を渡りバス停にやって来る。ところが、それまでは10分か15分間隔でやってきたバスが急に来なくなった。20分たっても30分経ってもやってこない。何人かの学生は諦めて歩き始める。待つこと40分、やっとバスが来た。

3つ先のアレキサンドル広場でバスを降り、今度は高架線のSバーンに乗ってオストバンホフという駅で降りる。少し歩くと、いろいろな絵が描かれた壁が見えてきた。数多くのウォール・ペインティングを見ながら、川沿いの道をゆっくり歩く。

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もう次の駅が近かったので、そこから鉄道でベルリン中央駅に向かう。3日後にポーランドワルシャワに行く予定にしている。本数の少ない国際特急列車なので予約を取っておきたいと思ったのだ。

3日前にプラハからこの駅についたばかりなのに、中央駅に着くとなぜか懐かしい。あの時は右も左もわからなかった。しかし、今ではこの駅が街全体の中でどこに位置しているのかもわかる。地下鉄と路面電車とバスを乗り継いでベルリンの街を自由に歩いている自分がいる。ものすごい進歩だ。

チケット・カウンターがどこにあるのかわからない。それらしきマークの表示はあるが、その矢印を辿っていっても、いつの間にかなくなってしまう。本当に不親切だ。駅構内をしばらくうろついていると、チケット売場らしい部屋があった。大勢の人が待っている。機械から整理券を取って順番を待つらしい。電光掲示板にその番号と窓口の番号が一緒に表示されるようなっている。乗車券を買うだけで、何で待たなければならないのか? 日本なら新幹線のチケットでもほんの数秒で買えるじゃないか?

20分ほど待っていると、私の整理券と窓口の番号が表示された。窓口の女性に「今日ではないんです。3日後にワルシャワに行きます。ユーレルパスを持っていますから、チケットはいりません。予約だけ今できますか?」と聞くと、「できます」と言う。「何時の列車ですか?」と聞かれたので、列車のベルリン発車とワルシャワ到着時間のメモを渡した。

クレジットカードで3ドルほどの料金を払うと、車両と座席の番号が刻印されたチケットを渡してくれる。「この席は進行方向を向いているんですか?」と聞くと「わかりません。ドイツの列車ではないので」と言う。なるほどそういうものなのか。

無事に予約も取れてひと安心。チケットルームを出ようとすると、そこに券売機があった。そうだ、明日近郊のヴィッテンベルクという村に行くんだった。この駅で切符を買って、そのまま列車に乗ればいいと思っていたが、果たしてそんな簡単なことなのだろうか? 券売機で買えるものなのか、ちょっと試してみよう。

パネルをタッチして言語を英語にして、行き先をWittenbergと入力。ところがその先がわからない。「大人」か「シニア」か「学生」か? はたまた「片道」か「往復」か? みんなドイツ語になってしまう。チケットルームのインフォメーションに女性がいたので、「券売機でチケットを買っているのだが、途中からドイツ語になってしまってわからない。『大人』『往復』をドイツ語でどう書くのか教えて欲しい」と紙とペンを差し出した。ところがその女性は「ここで整理券を取って順番に並んでください」と言う。えっ? さっき20分も待って予約券を買ったのにまた並ぶのか? 日本の東京駅ならJRの社員が券売機まで来て、懇切丁寧に教えてくれるぞ。ここで「整理券を取ってください」と言うだけの「インフォメーション」なら、人なんていらない。表示だけあればいいじゃないか!

また30分待った。今度は人の良さそうなおじさんだった。「明日Wittenbergに行きたいんです。いま往復チケットは買えますか?」と聞くと「どっちのWittenbergですか?」と聞く。そうか、同じ名前の駅が2つあるんだ。「マルチン・ルターに興味があるんです」と言うと、すぐにわかってくれた。

「時間は?」と聞かれた。「朝10時頃に行って、夕方帰って来るようにしたいんです」と言うと、1032分発、午後3時戻りのチケットを取ってくれた。帰りは「夕方」と言ったのに、いやに早い。そんなに長くこの村に滞在する人は少ないのだろう。

31ユーロ」だと言う。特急で40分、各駅で1時間半なのにずいぶん高い。何日か前にチェコの“チェスケー何とか”という駅からプラハまで列車に乗った。その長距離列車の運賃でさえ8ユーロだった。「ずいぶん高いですね」と言うと、「往復なので・・・」と申し訳なさそうに言う。チケットを差し出し、「空欄のところに名前を書いてください。ファミリーネーム、ファーストネームの順で」と言う。電車のチケットに名前を書くなんて初めてだ。何の必要があるか、さっぱり理解できない。

国際急行列車の予約をし、近郊の村までのチケットを買うだけで、すったもんだがあり、1時間以上かかってしまった。日本なら、それぞれほんの数秒で終わることだ。意味がわからない。

 

チェック・ポイント・チャーリーとブランデンブルグ門

625日(火)、昨夜ホテルにチェックインした時にもらった地図を頼りに、地下鉄「Uバーン」の駅で1日乗り放題のチケットを買って「チェック・ポイント・チャーリー」を目指す。

ベルリンに着いて気がついた。『地球の歩き方』の「ウィーンとザルツブルグ」「中欧」は日本で買って持ってきたのだが、「ドイツ」についてはすっかり失念していた。買ってもいなかった。だから情報はネットで調べるしかない。

付け焼刃というか泥縄というか、朝になって「ベルリンのお勧め観光地」を検索し、まず最初にこのチェック・ポイント・チャーリーに行くことにしたのだ。

ご存じの方も多いと思うが、念ために説明しておくと、第二次世界大戦後ドイツは東西に分裂した。東ドイツソ連を代表する社会主義国、西ドイツはアメリカを中心とする資本主義国家となった。ただ、このベルリンという街だけは特別で、「ソビエト・セクター」と「アメリカ・セクター」「イギリス・セクター」「フランス・セクター」に分けられ分割統治されることになった。ソビエト・セクターが東ベルリン、アメリカ、イギリス、フランス・セクターが西ベルリンと呼ばれるようになる。

だから、東ドイツのど真ん中に資本主義陣営の「飛び地」ができ、西側諸国の人々はそこに行くのには飛行機で飛んで行くしかなかった。もちろん西ベルリンの人が西側諸国へ行く場合にもも飛行機を使った。東ドイツの住人の中には、自由と富を求めて西ベルリンに侵入し、飛行機で西側へ脱出しようとする人が多くなった。そのため高くて頑丈な「壁」をつくって、東ベルリン市民が西ベルリンに行けないようにしたのだ。境にあるビルの窓という窓も全てブロックで塞がれた。監視塔もつくられ、東から西へ逃げようとするものは容赦なく射殺された。

その境の「壁」にいくつか設けられた検問所のひとつがチェック・ポイント・チャーリー。今でも道路の真ん中に小さなプレハブのような建物が残っていて、観光用にアメリカ兵の格好をした人もいる。まわりを観光客が取り囲んで写真を撮っている。横には「You are leaving the American sector」(あなたはアメリカ地区から出ようとしています)という看板の表示もあった。

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「チェック・ポイント・チャーリー・ハウス」という博物館があったので、そこに入る。パネルでの解説が多かったが、スーツケースの中に入って脱出した人を紹介する展示、壁の前で演奏する世界的チェリスト、ロストロ・ポーヴィッチの映像もあった。地図を見て、私が泊まっているホテルは旧東ベルリンの側にあることがわかる。

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隣には「Die Mauer」という壁ができた当時の様子を再現したパノラマ博物館もあった。向かいには「Black Box Cold War」という博物館。壁が建設された当時の映像もゆっくり見ることができた。受付の女性に「ネットの画像検索で、壁と監視塔が残っている野外博物館を見たことがあるんですが、それはどこですか?」と聞くと、親切に場所を教えてくれた。

次に行ったのは、やはりブランデンブルグ門。両側で工事中だったこともあると思うが、意外と小さかった。パリの凱旋門のような、もっと大きくて壮麗な門を想像していた。やはりナポレオンがベルリンを征服した時にもパレードが行われ、ヒトラーが車でこの門をくぐる映像を見たことがある。そんな重厚な歴史に彩られているから、期待が大きすぎたのだろう。

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地下鉄で先ほど教えてもらった「壁博物館」に行く。そのまま地下鉄で北に3駅。駅から10分ほど歩くと、小さな博物館らしき建物が見えてきた。簡単な展示があるだけだったが、その横に階段があり展望台に上がって、道路を挟んで向こう側の壁に囲まれた空き地を見降ろすことができた。壁も監視塔も当時のままだと言う。

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久しぶりに日本食でも食べようと思い、路面電車で「ミヤビ」というラーメン屋を目指す。ところが反対方向に乗ってしまい、ひとつ先の駅で降りてまた戻ることにした。道路を渡ると「Excuse me?」という声がして振り返る。「チケットを拝見します」と言われ、今朝ほど買った1日券を見せる。これで持っていなかったら、かなり高額の罰金を払わなければならない。

そいえば、もう25年も前になるだろうか? 出版社の海外担当をしていた私は、毎年フランクフルト・ブックフェアに出張していた。1日休みをもらってマインツグーテンベルク博物館を見に行った。その帰り、小さな駅でフランクフルトまでの切符を買おうと思ったのだが、私は札きり持っていなかった。券売機は2台あったが、札を入れてお釣りが出る方の切符販売機は壊れていた。また町まで10分歩いて戻ってチョコレートでも買って、小銭をつくって切符を買うことも考えたのだが、それもおかしな話だ。だって、お釣りが出る券売機が壊れていたのは、鉄道会社の責任じゃないか。

電車はフランクフルト市内に入ると、そのまま地下に潜り地下鉄になった。そこに検札の車掌が来た。「マインツの駅で券売機が壊れていて、切符を買えなかった」と説明しても、聞く耳を持たなかった。まだマルクだったが、5000円ほどを今ここで払えと言う。「だって券売機が壊れていたら切符は買えないでしょ? それはあなたの会社の責任だから払う義務はない」と言った。「どうしてもダメだ。いますぐ払え」の一点張りだった。最後には「日本だったら、こんな理不尽なことはあり得ない」と大声を出した。埒が明かないので仕方なく“罰金”を払ったが、いま思い出してもはらわたが煮えくり返る。地元の人に聞いたら、「鉄道会社に手紙を書いて、当日確かに券売機が壊れていたことが証明されればお金は返してもらえる」とのことだったが、旅行者には時間もないし、そこまではできない。向こうの手落ちなのに、なぜこちらがわざわざ手紙を書くような面倒なことをしなければいけないのか。やっぱりおかしい。

ラーメン店はまだやっていなかったので、近くのカフェでサンドウィッチを買ってホテルに帰った。近くで路面電車に乗ると、そのままホテルと目と鼻の先の停留所に着いた。

私はExpediaでホテルのネット予約をしているのだが、ホテルのチェックインのたびにiPhoneアンケートに答えてほしいというメールが届く。このベルリンのホテルに関しては、チェックインの際の「フロント係の対応」や「部屋の清潔さ」については満点をつけたのだが、「立地」については「スーツケースを持って旅をしているので、ベルリン中央駅から遠い」という理由であまり良い評価はしなかった。

しかし、今日初めてベルリンの街を歩いて、このホテルの立地の良さがわかった。もう一度感想を送り直すことができるのか?

 

プラハ城を見て、国際長距離列車でベルリンへ

6月24日(月)、朝起きてホテルで朝食。部屋でパッキングを済ませ10時半にチェックアウト。荷物を預かってもらい、バックパックを背負ってプラハ城に向かう。昨日はブログを昼まで書き疲労困憊、そのままホテルから外出せず夕方まで寝てしまった。急遽完全休養日にしてしまったのだ。

だから今日は忙しい。できれば午後1時までにプラハ城と隣の国立美術館を見てまわって、2時前にはホテルに戻ってスーツケースを受け取り、232分発の国際長距離列車ECでベルリンに行きたい。

地下鉄A線のMuzeumという駅で電車に乗ろうとした時、ちょうど真ん中あたりに大勢の集団が待っていた。団体旅行者らしい。私はそこを避け一番前の車両に乗った。

電車はプラハ城に一番近いMalostranskaという駅に着いた。降りようと思ったがホームがない。あれ、反対側がホームかなと思って見ると、そこには暗闇の中に線路があるだけ。そうか、まだ電車は駅に着いていないのかと思っていると動き始めた。電光掲示板に次の駅が表示された。そうか、Malostranskaの駅は何らかの理由で閉鎖されているのか、あるいはこの電車は特別に停車しないのかもしれない。

次の駅で観光客らしき人が何人か降りたので、私もそれに続いた。一瞬ひとつ前の駅まで戻ろうかという考えもよぎったが、ここからプラハ城に行った方が近いのかもしれないとなぜか思ってしまった。

iPhoneを頼りに城を目指すが、なかなかたどり着かない。丘の上の公園に来てしまった。お城がはるか下の方に見える。駅を出て40分、やっとお城の一番端の入場口のところにたどり着いた。Malostranskaの駅で降りれば、たった5分で来られたところだ。ものすごい時間のロス。

お城のチケット売り場はまだまだ先だ。城内のなだらかな坂道を15分ほど歩き広場に出た。つきあたりのチケット売り場に到着するが、建物の外まで行列ができている。仕方なしに一番後ろに並ぶ。もう11時なってしまった。果たして城の中を全部見て隣の美術館にも行けるのだろうか? 

10分ほど待って、とりあえず建物の中に入った。でもまだまだ行列は長い。右側の部屋にはカウンターが4つほど見えた。左の部屋は窓口が2つあったが、音声ガイドを貸し出すカウンターのようだ。その部屋から女性スタッフが出てきて、大声で「こちらの部屋でも入場チケットが買えます」と言う。

私はその左の部屋に入った。窓口が2つあった。奥の方が早く終わりそうだったので、そっちに並んだ。ところが前のイタリア語を話している二人の女性が係員と何かもめている。その間に隣の窓口では5人ほどがチケットを買って外に出て行った。

並び方には2種類ある。「クシ型」「フォーク型」だ。複数ある窓口それぞれに並ぶのが「クシ型」、列を1列にして先頭の人から空いた窓口に進むのが「フォーク型」だ。アメリカやヨーロッパでは「フォーク型」の並び方が普通だ。日本では「クシ型」が多かったが、何年か前からコンビニやトイレなどでは「フォーク型」が多くなっている。

この部屋に入った時、前の人のチケット購入がすぐに終わるだろうと思ったのが間違えだった。15分たってもまだ目の2人が窓口の男性と何か言い合っている。私の後ろに女性が並んだ。「もう20分も待っているんだ」と説明する。中国人だと言う。私は「もうギブアップする」と彼女に言って、隣の窓口の列の一番後ろに並び直した。「グッドラック」とその中国人は私に言った。

私の前には5人ほどが並んでいたが、意外と早く自分の番が来た。まだ隣ではもめ続けている。日本語の音声ガイドはないと言うので、入場チケットだけ買った。クレジットカードで料金を払うと、女性スタッフがチケットを裏返して説明する。「今日は故宮は閉まっています」と言って、時計数字の「1」に×をする。「それ以外のこの数字の建物に行ってもらえれば入場できます」と説明してくれた。私はThank you.と言って外に出た。一番近い駅で降りられなかったこと、並んだ窓口で前の人がもめていたことで1時間以上も時間をロスしてしまった。

最初に番号「2」の「プラハ城の歴史」という建物に行こうとしたらチケットがない。あれ? どこへいったんだろう? ズボンやシャツのポケットの中をまさぐったが、どこにもない。領収証はあるし、受付の女性も私が払ったことを覚えているかもしれない。それならチケットを再発行してもらえるだろう。そう考えて、また窓口に並び直す。前の6人が終わり私の番が来た。「さっきお金を払ったんですが、チケットがないんです」と言うと、彼女はすぐに横にあったチケットを差し出して「ちゃんと受け取ってくださいね」と言った。お詫びとお礼を言って外に出る。わかった。チケットを裏返して、展示場の番号に×をしたりして説明してくれたことで、私は瞬間的にそれがチケットでなくパンフレットだと勘違いしてしまったのだ。

2番の「プラハ城の歴史」からスタートして6か所ほどの展示を見終えると、115分になっていた。2時にホテルに戻れば、駅まで10分。232分のベルリン行きECに乗れるだろう。

国立美術館をサッと見て、すぐにホテルに戻ろうと思ったのだが、それがなかなか見つからない。美術館の方向を指し示す標識もあり、その方向に行ってみても、それらしき建物はない。ショップがあったので聞いて見ると、前のアーケードのような門を入った先にあると言う。坂を下ると、美術館の係員らしき人がいたので聞くと、「今日は月曜日で休みだ」と言う。

時計を見ると130分。急いで戻れば、列車に間に合うかもしれない。ベンチに座り、バックパックから時刻表を取り出し確認すると、「432分」にECがある。ベルリン到着は8時。まだ十分に明るい時間だ。

もう3日前のように、スーツケースを転がして駅に走り込むようなことはしたくない。だが、これが今日最後のベルリン行の列車。10時、12時、2時、4時の32分の出発となっているが、なぜかそれ以降の列車がない。午後6時の列車で途中の駅まで行って、そこで乗り換えて深夜0時に着くか、それがダメなら寝台車で行くしかない。到着は明日の朝だ。するとホテルの宿泊代がまるまる1日分ムダになってしまう。

私は432分のECに乗ることにした。だた、その列車を逃すことはできない。今日最後のベルリン行きECだ。最悪の事態を考えると、混んでいて乗れないとも限らない。だから駅に着いたら、すぐに予約することにしよう。

ゆっくり坂を降り、広場から路面電車に乗り途中で別の線に乗り換えてホテルの近くまで来た。まだ時間はある。ゆっくりお昼を食べてホテルに戻った。

スーツケースの引換券をフロント係の女性に渡していると、途中から割り込んでフロントの彼女に話しかける若い女性がいた。中国人か韓国人だと思う。フロント係は「いまこのお客様とお話をしているんです」と言ったが、私にはまだ時間がある。「どうぞ先に話をしてださい」と順番を譲った。きっと何か緊急の事態が起こったのかと思ったのだが、私の手続きが終わってからでも全く問題のないようなことだった。

私は若い頃からずいぶんひとりで旅行をしてきたが、順番を無視してまで聞かなければいけないような緊急事態に遭遇したことが何度もあった。昔はそんな長い休暇は取れなかった。1週間か長くても10日間。そんな余裕のない旅をしていたから、ヨーロッパでは普通に起こり得ることでも慌ててしまい、自分で“緊急事態”にしてしまったのだろうと、今になって思う。

駅に着いて、インターナショナルの窓口で予約をする。コンピューターの画面がちらっと見えた。席がずいぶん赤くなっている。赤い席が予約済みなのだろう。今日最後のベルリン行きECだ。やはり予約をして正解だった。ウィ-ン駅で予約した時には席ではなく列車の車両の予約だった。どこに座ってもよかった。確認してみると、今回は「座席の予約」だとのことだった。

さて私の乗る列車は何番線なのか? 駅構内の電光掲示板を見る。列車番号と時間は表示されているが、プラットホーム番号はまだだった。みんな電光掲示板を見上げ、ホームを確認してからホームに進んでいる。

発車15分前になっても、まだホーム番号が出ない。毎日のことなのになぜホームが決まらないのか? そんな付け焼刃でギリギリの時間にホームを決めて事故は起こらないのか?  日本では列車が発着するホームが事前に決まっている。それが異常なのだろうか?

10分前に「6」という数字が出た。「6番線」だ。みんな一斉に歩き出す。一番離れたホームへと階段を上がると、列車が停まっていた。ファーストクラスは一番後ろだ。

ゼカンド・クラスとの間に食堂車がある。さすがに国際列車だ。

私の席は「36」。重いスーツケースを引き上げて列車に乗り込む。ラックがあったのでスーツケースを置いたが、私の席はさらに先にあった。ここからではスーツケースが見えない。盗難にあったら、これからの旅は滅茶苦茶になってしまう。まあ昔と違って、カギは暗証番号で開くようになっているから、盗難はかなり減っているのだとは思うが。

車両には進行方向の右側席が1つ、左側に2つがあった。日本のように全部席が進行方向を向いていない。半分の席は前を向いているが半分は後ろ向きだ。真ん中だけ後ろ向きと前向きの席が向かい合っている。私の席は、その向かい合う席の前向きで窓側だった。すでに通路側に太った人が座っていた。向かい側にも人が座っていたが、その席を予約した人が来たので、どこか他の席に移って行った。きっと予約なしで乗った人だろう。

列車は発車時刻になっても動かなかったが、15分ほどして走り始めた。私は隣の人に声をかけて通路に出て、スーツケースが見える席に移った。

左側の2人掛けの席に座った。チェコとドイツの田園風景をゆっくり楽しもうと思ったが、陽の光がまぶしくカーテンを閉めて眠るしかなかった。実は毎日長文のブログを書いているので、列車で書いたら時間の節約になるのではないかと思い始めていた。ところがパソコンはスーツケースの中に入れてしまった。バックパックの中に水の大きなペットボトルを入れようとした時、万一水が漏れてしまったらまずいと思ってパソコンを出してスーツケースに入れてしまったのだ。狭い車内で大きなスーツケースを広げるのも気が引けて、そのままでいるしかなかった。

検札の車掌が巡回してきた。私はユーレイルパスと予約チケットを見せて「もし予約した人が来たら元の席に戻ります」と言ったが「問題ありません」と言う。周りには予約なしで乗車した人だろう、席の予約をした人が来るとどいて他の席に移っていた。どうも「予約」のシステムがよくわかない。男性の車掌は私のユーレイルパスと予約券をチェックし終わると、「This is for you.」と言ってペットボトルの水をくれた。たくさんのミネラルウォーターを積んだラックを引きづりながら検札をしていたのだ。ちょっと見では、車内販売のようだ。

ベルリンのホテルは駅から近かったんだろうか? これまではクルムロフを除き駅から数百メートルのホテルだけを選んで予約した。だがベルリンの駅はどうだったのだろうか? 自分で予約しておきながら記憶が定かでない。iPhoneで確認しようとしたが電源が20%になっている。すぐに切れてしまいそうだ。ベルリンの駅で降りてからホテルまでの行き方を確認することに決め電源を切る。

さすが国際特急だけあって座席の下にはコンセントがある。私はコンバーター(変圧器)とヨーロッパで使えるソケットも持っているが、残念ながらそれもスーツケースの中だ。

まだお腹はすいていなかった。食堂車に行って今晩ホテルで食べる夕飯を注文する。チキンとポテトの盛り合わせがあったので、それにパンをつけてもらいテイクアウト。ハッピーアワーとそれ以外の時間の値段が併記されている。ハッピーアワーの方がはるかに安い。列車に乗ったらすぐに買っておけば良かった。日本でもお馴染みになったハッピーアワーだが、酒を飲まない私には関係ないと思っていた。でも、こんなに安いとは! 通常料金を払う私にとってはすごく損したようで、ハッピーな気分にはなられない。

列車は15分遅れてベルリン中央駅に着いた。iPhoneで確認すると、歩いて20分となっている。私が歩いたら30分かかるだろう。仕方なしにタクシーに乗ることにした。

10分足らずでホテルに到着。チップ込みで10ユーロ。また無駄遣いしてしまった。午後9時半。このホテルはベルリンの街のどのあたりにあるのだろうか? この街が東西に分かれていた時には、どちら側にあったのだろうか? 

そんな歴史に翻弄された街のホテルで、私は睡眠もとらず、すぐにブログを書き始めた。